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[コメント] グラン・トリノ(2008/米)

「アメリカは、あらゆる時代・土地・国民の抜粋を収集し、サンプルを提示する。そこでは、最も単純であるような愛の物語が、様々な州、様々な人々や部族を巻き込む」(ジル・ドゥルーズ)。アメリカの終焉と新生、断裂と連結の象徴としての、グラン・トリノ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は、彼自身、ポーランド系アメリカ人。彼の、アメリカ人としての自意識は、フォード社に長年勤めてきた、という時間的な蓄積に拠っている筈だ。だからこその、グラン・トリノの重要性。そのグラン・トリノがアジア系の不良たちに狙われているという事実は、アメリカが新しい異分子どもに侵食されている、というウォルトの苦々しい感情の反映だ。

この、ウォルトの感じる苦々しさ、排除の感情は、それ自体、隣家のモン族の人々との交流という、時間の蓄積によって解かれていく。

ウォルトは、敬意だとか品位といった事には関心の無さそうな孫たちの態度や、孫娘のピアス付き臍だしルックにも、しかめっ面をして「ウー」と唸ったり、無言でプッと唾を吐いたりするだけで、説教するでもなく、殴りつけるでもなく、ただ目を背けるだけだ。冒頭の葬儀の場面での、苦虫を噛み潰しているその様子からして既に、自分も妻と同じく、不浄な世界に別れを告げたがっているように見える。彼は最初から死に場所を探していたのではないか。

そんな、身内とも関わり合いになろうとしないウォルトだが、「俺の庭に入るな」という、神経質な縄張り意識によって却って、隣家で不良たちが起こした騒動に介入する事になる。翌日には、隣家の人々の強引な謝礼。身内でもなく、価値観や習慣も異なるという齟齬によって、むしろ相互の距離はなし崩し的に埋められていく訳だ。

保守的な人間が素朴に信じる価値観としての「家族」よりも、異分子との衝突こそが、具体的な個々人を自然な絆で結びつける。また、イタリア系の床屋や、タオに紹介した仕事場の責任者であるらしい知人の男らと、ウォルトが交わす毒舌は、互いに異なる者同士が接触し合う事の摩擦を、そのままユーモアに昇華している。

異なる人間同士の齟齬としては、世代間ギャップも描かれている。上述した孫たちとの間はディスコミュニケーションのままで終わるが、若く青白い神父ヤノヴィッチや、グラン・トリノを盗もうとして追い出されたタオ、その姉スー(アーニー・ハー)との交流が、それを補う。

終盤、自らの死への準備に入ったウォルトは、教会を訪れ、それまで避けていた懺悔を行なう。その場面での、ヤノヴィッチとの、金網越しの対話。これは、ウォルトが不良たちの許へ単身乗り込む為にタオを地下室に閉じ込めた際の、同じく金網越しの会話と、対になっているように思える。金網――向かい合っている筈の人間同士を隔てる境界。

だが、この金網によって互いの表情が半ば覆われている事で初めて、普段は明かせなかった本音を語る事が出来てもいる。隣家に招かれた時、ウォルトは独り、こう言っていた。「ままならない家族よりも、ここの人々の方が身近に思える」。また、この金網越しの会話には、擬似父子的関係性が認められるが、妻の遺言によってウォルトの事を託されていたヤノヴィッチは、ウォルトにとって神父、「Father」と呼ぶ相手でもある。

この相互的な関係性が重要な点だ。ウォルトは、単にその差別意識をモン族たちによって解消されていくだけの存在ではない。スーは彼に、自分の親たちは古い人間だと愚痴る。ウォルトは、自分も古い人間だが、と答えるが、スーは、「でも貴方はアメリカ人」と。アメリカ人である事とは、常に更新されていく国の一員である事、或る永遠の若さに参加しているという事なのだろう。ポーランド人ではあるが、同時にやはりアメリカ人であるウォルト。

反面、アメリカ人である事は、ウォルトにとって、朝鮮戦争で、モン族の若者たちと同じような顔をした「敵」を殺した、という心のしこりとしてもある。ウォルトが最後に、血の制裁を拒みながらも自己犠牲によって復讐を果たす行為は、その意味で必然だ。この必然性が劇的に感じられるのは、新聞の星占いをウォルトが読む場面や、モン族のパーティで、祈祷師にその心の裏を見事に言い当たられてしまう場面によって、その宿命性が暗示されていた事にも因る。

不良たちに撃たれたウォルトが、拳銃をとり出すかに見せかけて握っていた、兵役時代の証しとしてのライター。この紋章付きのライターを乗せた掌に向かって、ウォルトの血がツーッと流れていく。彼は、不良たちに「アメリカ」そのもの(の暗い一面)を撃たせたとも言えるだろう。

殆どアメリカそのものを象徴的する存在であるグラン・トリノは、それ自体が画面に大きく映し出されたりはせず、むしろウォルトらの視線の隅で、その光沢を放つ流線形のボディをさり気なく誇示していた。画的にグラン・トリノを目立たせるのではなく、飽く迄も登場人物同士の関係性に於ける接点として描くという、地味ながらも秀逸な演出。

こうして、丁寧に描かれる人間ドラマという「時間の蓄積」によって、一台の車が象徴的な存在となってしまえば、エンドロールでの、単に車が次々走り込んでくるだけのショットにも、特別な感慨を抱かない訳にはいかない。タオの乗ったグラン・トリノが走り去った後の道路。次々に画面を通過していく、色も形も様々な車たちは、アメリカの地に触れていく、種々雑多な魂の群れのように見える。

グラン・トリノを、血縁者である孫ではなく、タオに譲るという事。ウォルトが抱いていたアメリカ像を崩す異人種の若者への移譲。これは、古いアメリカの放棄であると同時に、常に更新されていく、来るべきアメリカへの、ウォルトの参加でもあるだろう。曖昧で多義的かつ、厳粛な継承。

エンドロールを除いて、僕にとって最も感動的だった場面は、スーがウォルトの葬儀に出席する場面だった。モン族たちに囲まれて、居辛そうにしていたウォルト。地下室の若者たちの輪から離れて苦笑いするウォルト。同年代の連中に溶け込めずにいるタオ。居辛さ、溶け込めなさ、違和感と孤立。自分は異物であるという事。これに最も耐えているのは、キリスト教式の葬儀に、モン族の民族衣装を着、無残に腫れ上がった顔を毅然として晒している、スーだ。そして、在るべき場所に整然と収まったように見えるウォルトの遺体は、殆ど半透明に見えるほどに澄んだ肉体と化している。

ところで、2009年5月号の『文學界』には、この映画をテーマにした、いつもの三羽烏による鼎談が掲載されていた。僕も映画館からの帰路、本屋で立ち読み(すいません)してきたが、その中で指摘されていた事の一つが、「アーニー・ハーは最初の内はむしろ不細工な方に見えるが、いつの間にか魅力的に感じさせられてしまう」、という点。

僕はイーストウッドのよき観客ではなく、それほど過去作を観てもいないが、最初は特別な魅力を感じさせなかった女性が、イーストウッドと交流する過程で次第に輝きを増していく、という流れは、彼自身の監督作に限らず、幾つかの先例が思い浮かぶ。『ブロンコ・ビリー』のソンドラ・ロック、『タイトロープ』のジュヌヴィエーヴ・ビジョルド、『ブラッド・ワーク』のワンダ・デ・ジーザス等。その究極が、『マディソン郡の橋』のメリル・ストリープなのかも知れない。

イーストウッドは、最初から魅惑的な印象を与えるゴージャスな女性と結ばれるよりは、具体的な関わりの中で、時間をかけて相手の隠されていた魅力を引き出していくのが似合う。そんな彼だからこそ、今回のように「交流」が主題とも言える映画を、見事に成立させ得たのだ。

それにしても、パワーのある映画だ。様々な場面が、一つの体験のようにして記憶に焼きつけられる。不良を押さえ込んだウォルトの顔を仰角で捉えたショットでの、彼の、錆びれたような肌と、鬼のような形相、だがその瞳は澄んでいた事。庭で鶏を捌くモン族に「野蛮人め」と顔をしかめていたウォルトが、彼らから料理を贈られた際に「鶏肉団子か?あれは旨い」と、入れ入れと彼らを家に迎えていた事。或るモン族の少女を称讃しながらも、最初に勝手に呼んだ「ヤムヤム」という名で、だが敬意を込めて呼んでいた事。指鉄砲をしてみせたウォルトが、さあいよいよ本物の銃をとり出すぞ、という瞬間での音楽の鳴り方が最高にかっこいい事。一つ一つの仕種やショットが記憶に刻み込まれる、という、最もシンプルな映画性に溢れた、力強い作品。

(評価:★5)

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