[コメント] ビューティフル・マインド(2001/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
観た直後、落涙するところまではいかずとも、素直に、感動している自分がいた。ナッシュ教授(ラッセル・クロウ)の天才数学者としての業績についての判断に迷うところだが、彼と彼の妻の愛の物語には心を動かされ、人生を連れ添うということの重みと素晴らしさについてしばし思いを馳せた。
そして、彼が病に罹り、現実と幻覚の区別がつかなくなっていく過程、病院での過酷な環境と治療、「私はもう治っている」という悲痛な叫びと周囲とのすれ違い、そして全てに対する癒しとしてのノーベル賞受賞の挨拶での妻への感謝。
特に、彼が後年プリンストンに戻ってから、彼の大学院時代の記憶と台詞がそのまま引用されるシーンにはぐっとくるものがある。劇中劇というのは、過剰な演出になりがちだが、この映画の場合には、発病以前の自分を取り戻そうとするナッシュにとって、不可欠な要素として盛り込まれている点が非常に巧みであると言わざるを得ない。
映画としての完成度は極めて高く、ロン・ハワードのストーリーテラーとしての能力の高さにうならされる。アカデミー助演女優賞に輝いたジェニファー・コネリーも、素晴らしく可愛いアイドルであった15年ほど前から、その卓越したアイドル性ゆえか作品に恵まれず、『恋の時給は4ドル44セント』などというヘボい作品に出るなどしてきたが、この作品で遂に報われたと思うと感慨深い。エド・ハリス以下の脇を固める俳優陣も完璧だ。
とまぁ、ここまでで5点をつけることには自分としても納得しているのだが、その後色々な情報が入ってきた。それは自分から既にこの映画について知っている人に対して積極的に聞いていったのだが、そうしたのには理由があった。
ロン・ハワードの卓越した語り部の能力は疑い無いが、この映画(の中で語られている世界)の中盤において一点、どうにも不自然な点があった。
それは、アリシアは恐らくプリンストンの数学科を卒業したのだろう、と思わせられる展開になっているが、その彼女がなぜ「残業を3時間増やすわ」などという台詞が必要な仕事をしているのか?というくだりである。ナッシュが発病してからの生活の苦労を表すための演出にしては、発想が貧しくないか。 その瞬間に私は「醒めた」とまでは言わないにしても、あぁ、これはフィクションの世界なんだった、ということを思い知らされた。
それでは一体どこまでが現実のナッシュ教授の人生に起こった出来事で、どこからが創作だったのか。或いは、語られていない重要な要素があるのか。その結果は、
↓さらにネタバレ(後悔していい人だけ読まれたし)
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ナッシュとアリシアは生涯連れ添ったわけではなく、40年近くの別居を経て再婚したらしいこと。ナッシュ教授が実はゲイ(というかいわゆる両刀使い)であり、暴力や人種差別をするような人であったこと。ノーベル賞の授賞式では受賞者の挨拶は無いこと。
こうなってしまった原因は発病してからの半生が思い切りはしょられているところ辺りにありそうだ。もっとも、こういったこと全てを盛り込んだらメッセージがみえなくなるので仕方が無かったのかも知れないが、ともかくこの映画で二重の意味で注意しなければいけないというのはこういうことである。
第一に、この映画の中での「現実」と「幻覚」の違いについて。
初めてペンタゴンに行ったシーンで、エド・ハリスの姿を目撃するが、ナッシュ教授がペンタゴンを訪れるに至ったシーンが登場しないため、この部分が現実なのかどうか判然としない。そこは敢えてぼかしてあるのかもしれないが。 ここ以降の場面に、プロットはたくさんたくさん仕込んであるのでそれは観る人が一つ一つ解きほぐしていけばいいだろう。
これは要は、この映画の映像の中で、ナッシュ自身の視点から描かれている部分と、それ以外の人間なり第三者的視点から描かれている部分を峻別できるかどうか、ということだ。
第二に、より問題なのは、この映画においてロン・ハワードが事実を忠実に描いてはいないことだ。要は、フィクションをドキュメンタリーだと思ってはならない、ということである。彼の業績を描き、病について描く。一人の人間の人生を描写する、ということはそれだけで足りるほどたやすいものであるはずが無いし、この映画に描かれてることだけを観て納得していいはずも無い、と思う。
エド・ハリスと最初に話すシーンで、オッペンハイマーの原爆製造計画に話が及んだ際、「あぁ、あのプロジェクトか」と言ったナッシュに対し、「そんな簡単な話じゃないんだ」とその言葉を突き放すこの場面は、映画を観る聴衆全員に対して向けられている強烈な(しかし隠された)メッセージである、と言ったらロン・ハワードを買いかぶりすぎているだろうか。
この類いの映画を真に受けちゃおしまいよ、と言ってしまう人だけであればそれはそれで安心だが、そうでないからこそこの映画はアカデミーを獲ったのではないか?
事実ではなく真実が問題なのだ、ということであれば、彼がノーベル賞を受賞した、という事実は揺るぎないものだが、この映画で伝えられるべきメッセージあくまで映画的虚構としての夫婦の耐える愛の物語なのであって、ナッシュ教授のフィクション的自伝は、その媒介として使われたに過ぎない、ということであると思いたい。
少なくとも、この映画の中の架空の世界の出来事に私が至極満足したことは真実だ。私も私の大切な人と星空に傘を描きたい。それには東京の夜空は明るすぎるが。どうでもいいが、「蛸」は一体どうやって描いたのだろうか?
(2002.3.30,31)
(以下2002.4.1追記) 上記レビュー中に記載のある、映画に描かれなかったナッシュ教授の過去については、どうやらアカデミー作品賞にまつわる映画会社同士のネガティブキャンペーンに理由があったようだ。
同じく作品賞を狙うディズニー・ミラマックス(『イン・ザ・ベッドルーム』)とFOX(『ムーラン・ルージュ』)が、それぞれ手持ちのメディアを使って本作の主人公であるナッシュ教授の過去に対する糾弾を行ったという事実は、映画が他の産業と同じかそれ以上に収益を追求する産業であることを示唆するに充分である。それもまた、頭のどこかに置いておいた方がいい事実の一つと言えよう。
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