[コメント] ファースト・マン(2019/米)
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チャゼルが一貫した演出プランを最後まで妥協することなく仕遂げたらしいことは認めざるを得ない。ただしその演出プランとやらについては、全否定はしないまでも、巨大な疑問符が頭上に浮かんでくるのを止めることもまたできない。宇宙船(実験機を含む)シーンのほとんどがブレを伴った「主観」「アップ」のカットで構成されることは多くの観客が認めるところで、確かにこれは危機体験の主観化/個人化にあたっては有効だろう。しかしこれは、どれほど好意的に庇い立てを試みようとも、少なくとも面白さを第一義に定めた撮り口ではない。危機、すなわち高度や回転数の異常を「具体的に」示そうとするものが、畢竟「抽象」でしかない計器の数字・目盛より他にないからだ。危機の主観化/個人化にもまして抽象化/矮小化と云うべき事態に陥っている。したがって問題の所在に関してより正確を期すなら、「主観」「アップ」ばかりで「ロング」が欠けていること以上に、宇宙船「外部」から撮ったカットの不在を指摘すべきだろう。事実、アポロ一一号が発射され、中空を上昇するさまをエクストリームロングで撮ったカットは実に面白い。
また、これもチャゼルの意図するところだったにせよ、クレア・フォイを除いて愛すべきキャラクタがいないというのはやはり辛い。終盤、月面に降り立ったライアン・ゴズリングを突如として娘のフラッシュバックが見舞い、彼は娘の形見を月面に投げ置く。ここに至ってようやく初めてゴズリングに対して抱きしめたくなるような親しみを覚えるのだが、同時に作品そのものがずいぶん陳腐に堕してしまったようにも思えてしまう。演出が野暮天だからだ。劇中におけるゴズリングの人格形成・行動原理の中心には「娘の死」があったというチャゼル/ジョシュ・シンガーの解釈を維持するにしても、もっとやりようがあったのではないか。たとえば、フラッシュバックなど挟まず、バイザーでいっさい表情も窺えないゴズリングが、ただ月面に何かを放る。注意深い観客だけがそれを視認でき、「あれは娘の形見だったのかもしれない」とようやく勘づける――と、むろんこれが最上等の策だと云い張るつもりは毛頭ないが、いずれにせよ月面シーンにおいてチャゼルが選択した演出では、ここまで反魅力的に映ることも辞さない醒めたまなざしで描いてきたゴズリングの人物像を、私たちはあまりにも容易に呑み込め過ぎてしまう。さんざっぱら冷たく厳しく振舞ってきた後に優しい顔を見せる、というドメスティック・バイオレンスの方法に近いものがある。
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