★5 | やっと訪れた幸せの宴は、次の試練の呼び水。それでもきっとまた宴の時は来る。―閉じるたび風の音がするような睫毛、許しを乞う様な贖いの憂いを帯びつつ、その奥にストイックで強靭な意志を感じるアラン・ドロンの瞳。彼に見つめられたら誰でも惚れる。 [review] (muffler&silencer[消音装置]) | [投票(4)] |
★5 | 娼婦ナディアだけが「えにし」からも「きずな」からも遠いところにいる。 [review] (さなぎ) | [投票(4)] |
★5 | 人間はどこまでクズになれるか、それが恐るべき克明さで描かれる。そしてロッコのお人よしぶり、アラン・ドロンなしにはこの映画は存在しえなかった。 [review] (ハム) | [投票(2)] |
★5 | 天使のようなアラン・ドロンが美しい (くろねずみ) | [投票(2)] |
★5 | 労働者を描こうとしながらも、やっぱ、人間の本質というか、善悪の境界というかを見つめちゃうビスコンティですね。これは、無垢、とか、寛容、ということについての映画かな。想像を絶する悲劇に対して人はよりよく生きようと振る舞える可能性があるかという設問。この映画はすごい体験でした。アルファロメオが全面協力。 (エピキュリアン) | [投票] |
★4 | ビスコンティ自身が最も好きな作品。観る人の心を打ちのめす映画です。 [review] (ルッコラ) | [投票(5)] |
★4 | 重い映画だった。何かは人によって違うが何かを伝えようとしている。ビスコンティの作品に共通した見方がここにもあった。 [review] (kinop) | [投票(4)] |
★4 | 若者にとって、新天地の輝きが希望そのものの大きさに見えるのは当然であり同時に錯覚でもある。何故なら新しさは彼らに嫌がおうにも変容をせまり、若いということは被る変化も激しいということだから。得たものと失ったものの残骸が、かなえられた希望の量なのだ。 (ぽんしゅう) | [投票(1)] |
★4 | ロッコという存在が具現化されるには、あれだけの美しい青年が絶対に必要だったはず。 [review] (tomcot) | [投票(1)] |
★4 | この映画でのアラン・ドロンの聖人っぷりには吐き気が出る。一方でヴィスコンティの演出力を無視することもできない。特にナディア関連の二大シーンは見事。 (赤い戦車) | [投票] |
★4 | ネオ・リアリスモが“今”を観る作品であるとするなら、ヴィスコンティ監督作品の場合、“過去”“現在”“未来”全てを包括しているかのよう。 [review] (甘崎庵) | [投票] |
★4 | ロッコに思い入れ出来ず。 (これで最後) | [投票] |
★4 | ヴィスコンティ好きの私でも、この物語はつらいを通り越して痛い。私の中の鬱映画NO.1はこれだ・・・。 (たわば) | [投票] |
★4 | おもろい (ユメばくだん) | [投票] |
★4 | せっかく一人一人の名前で区切っていても 長男の強烈さで話を持っていかれっぱなし そんななかでもやはり一人一人に味を見せていたなぁと思い返させられるのがエライ 絶妙な手腕、あっぱれ (マツーラ) | [投票] |
★3 | 全体主義の母、ことなかれ主義の長男、個人主義の次男、博愛主義の三男、現実主義の四男の衝突を見て育った五男のキミの行く末は?俺のことはシモーネと呼んで下さい。 (町田) | [投票(2)] |
★3 | シモーネがヘタレなのは間違いないが、それ以上にロッコの異常なまでの優しさ(というより甘さ)が全ての元凶なのでは?それが「聖人」として描かれているのがどうも…。誰も裁けない人間は、結局誰も救えない。 (リーダー) | [投票(1)] |
★3 | 五兄弟についての五章立ての旅路。(レビューは作品後半部分の構成にも言及) [review] (グラント・リー・バッファロー) | [投票(1)] |
★3 | 中盤以降、どんどん、アニー・ジラルドとアラン・ドロンの映画という様相を呈してくる。つまり、どんどんメロドラマになる。最終章(ルーカの章)の家族(兄弟)全員が集まった場面の修羅場のシーンなんて、皆、泣き叫んで、嫌なシーンだ。
[review] (ゑぎ) | [投票] |
★3 | 聖人然としたロッコがシモーネと同程度に「最低」に見えるのも、善悪美醜様々な人間の縮図としての一家に於いて、一人の行動もまた、一家の内部で循環し一つの宿命へと集束するからだ。楽園としての故郷を後にした一家の罪と罰。 [review] (煽尼采) | [投票] |
★3 | 退屈な文学作品を読むときのような重さがある。邦題も陳腐だ。 (モモ★ラッチ) | [投票] |