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[コメント] A.I.(2001/米)

どっちやねん 冷たい現実 救いの手  *感じた事

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







昔こんな話を聞きました。 プロ野球の監督で一番大切なものは「自分の考えをはっきり持つこと」だそうです。監督には色んな種類の人がいて、緻密な人もいれば大胆な人もいる。どの監督の考えにもそれぞれ長所と短所があり、何が良いなんて決められない。一番大切なのは自分が何をやりたいのかをはっきり選手に伝えることである。

この作品、人によって「残酷な童話」「感動もの」「駄作」「知的な大傑作」と色んな反応がある。人によってはそれを「それだけ奥の深い傑作の証拠」と好意的にとる人もいるが、俺の意見は逆。 『2001年宇宙の旅』のような映画を難解とするのとは違い、この映画みたいな説明過剰な映画でこれだけ受け取り方が分かれるのは、監督の力量不足以外の何者でもない。

*3月9日追加。上記のreviewで本作の総括のようなものを書きましたが、最近コメンテータの皆さんの意見を読んで、特にmirrorさんのreviewにあるキューブリックの草稿(かもしれない)を読み直してみて、総括だけでなく個人的な意見というか推測のようなものを思いつきまして、それについて追加します。

mirrorさん掲載のキューブリック版草稿で以下の点が特に重要に思えた。

・子供の病気が原因で、母親はアル中。デイビッドに対する愛情は無く、デイビッドからの一方通行。 ・本当の子供にいじめられるのではなく、単なる母親のエゴで不必要になる。 ・捨ててこられるのではなく、追い出す。 ・遺伝子から再生するのではなく、記憶を現実化する。

この際、草稿の真偽は問いません。仮にもしこのように映画化されていたら、ここまでこんがらがる事はなかったという事です。草稿によると、前半の追い出されるまでは徹底的に冷酷に描かれます。最近巷に氾濫する言葉で云う所の「キューブリック的」というやつです。それに対して完成版は、母親はある程度は優しい人間で、ある程度はデイビッドに愛情を示し、ある程度は捨てるのを悲しむ。観客は安易にデイビッドを人間と同一視しやすくなる。ここで問題なのは、徹底的に「優しさ」で描くのでなく、それが中途半端であるということ。実際には母親は特別デイビッドに愛情を持ってはいなかったし、あくまでロボットに少し感情移入したに過ぎない(と俺は思った)。本当はただの家具のはずなのに、ついつい情が移ってしまって捨てるのが悲しくなった。結局デイビッドにとって冷たい現実には違いない。その「現実」の冷たいところだけでなく優しいところも盛り込み、より現実的にすることで、逆説的に冷たさの部分が引き立たっている。そしてラストで無理やり母親を一日だけ再生し、なんとなくデイビッドを可愛がり、それをデイビッドが自己満足して終わるという、救いようのない結末。ここまで冷酷に現実を突きつけられた映画を俺は見たことがない。一方、より素直に見る人にとっては、母親は優しい人に映り、デイビッドを捨てなくてはならない状況に同情し、ラストの再会をハッピーエンドとして受け入れる。これだけの違いが出来てしまった。前者の気持ちとしても、後者が感じたような受け取り方をするべき映画なのかどうか、確信が持てず、もやもやした気持ちの中にますます冷酷さだけが引き立つという結果。

これが草稿の通りだったらどうだろうか? 前半で人間として扱われず、徹底的に冷酷さを強調して描かれていたら、観客は「ここは主人公が冷たくされる場面だ」と、ある意味「安心して」その(冷酷)を鑑賞します。ラストであくまで「デイビッドの都合のいい記憶」としての母親を強調する事で、その現実の厳しさをしっかりと受け入れる心構えが出来ます。この「冷酷さの強調」こそが、キューブリックの優しさであり、繊細さであり、甘さともいえるかもしれない。『時計仕掛けのオレンジ』や『フルメタルジャケット』に見られるように、キューブリックの冷たさはシニカルに強調され、ほとんどコメディのように描かれる事が多い。完成版ではスピルバーグ流の優しさで、冷酷を冷酷として強調することなく薄め、徹底的に甘く包み込むことで、かえって冷酷さが胸に突き刺さる。繊細さを伴わない安易な優しさは時として残酷なもので、誤解を生んだり、ただのわがままにしかならない場合が多い。

はたしてスピルバーグにそこまで冷酷な映画を見せる覚悟があったのだろうか。ないだろう。一番問題なのは、そもそも本作はそこまでの冷酷さを感じるように作ったのか、それとももっと素直に優しさを感じて欲しかったのか、はっきりしない所である(まあ多分後者がやりたかったんだろうが・・)。もし本当により厳しい話を作ろうとしたなら大したものだが、それならここまでもやもやとした不快な冷たさを感じる事はなかったはずだろう。ここまでの冷たい現実を叩きつけておきながら、その叩きつけた本人に、明確な意思が見えないのだ。つまり送り手としての責任、誠意がない。それによってさらに現実が現実として重くのしかかる。「作者の発信した意思」として「受け取る事」が出来ない為、「ただそこにある現実」として「感じる事」しか出来ないのだ。そっちの方がよっぽど重い。ここまでやるからにはもっと自覚を持ってやってくれなければ。

俺が感じた事。スピルバーグという作家には、繊細さや強さなどを含めた本当の意味での「優しさ」が足りない。この題材を語る資格はない。

*しつこいようですが草稿の真偽は問いませんし、キューブリックを持ち出したのは「スピルバーグの映画」を批評するのに、都合のいい例えだったからです。別にキューブリックが作れば良かったなんて虚しい事を言おうとしてるのではありません。あくまで「スピルバーグの映画」について書いたつもりです。

(評価:★2)

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