[コメント] リパルジョン・反撥(1965/英)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ドヌーヴの目は閉じられるわけではない。ラストカットでも開きっぱなしである。「閉じる」という外界=世界を遮断する行為、またその媒介となるツールは様々な形であらわれるが、最終的にそれは開かれ、「受け入れる」ことになる。
薬物のオーバードウズこそするのだが、ドヌーヴは自殺(世界の究極的な遮断)を図ろうとすることはしない。例えば、カミソリという絶好の遮断ツールがあるのに、自らにはこれを用いない。これがこの映画の一番切なく哀しいところ。侵入の受け入れの拒絶を繰り返すドヌーヴが、本来その目で観て、受け入れたかった世界とはどのようなものだったのか。受け入れの拒絶の果てに、最も受け入れるべきでなかった世界の有り様(「ヒビ」が醸す絶望的な侵入の予感)、満たされない衝動を耐えきれずに破壊で代替してしまう結末を受け入れてしまう悲劇。ドヌーヴは死にたかったのではなく、生きたかった少女であるということ。青臭い話なのだが、この映画って、結構「青春映画」として「共感」する人が多いのではなかろうか。
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「窓」や「ドア」の使い方が巧い、なんて言説をよく耳にします。私はまあそうですねくらいにしか思わず、画だけで映画は絶対に成立しないと思いますが、ポランスキーに関して言うと、侵入というテーマと行為が全て不可分なのでワンシーンごとにやたらと見応えがある。
ポランスキーの場合徹底しているのは、侵入=レイプを五感のレベルで制覇するに飽き足らず、第六感(夢)にまで手を伸ばしてくること。登場人物をレイプしているように見せかけて、観客ごとレイプしているのが実情。ポランスキーの迫真力はこの技巧に基づくところが大きいと思う。
・聴覚=猥談、あえぎ声、秒針、浴槽に溢れる水、楽隊の奇妙な音楽、電話のベル、悪声
・嗅覚=腐臭、乱れた着衣の臭い、血の臭い、香水、タバコ、脂、男達や老婆の口臭
・味覚=フィッシュ&チップス(この監督は食べ物を不味そうに撮るのが上手)
・触覚=老婆の乾いた肌、身体をまさぐる手、血糊
・視覚=あらゆる顔、顔、顔(アップショットが実に気持ち悪い)
政治的思想的なニュアンスを加えた『ローズマリーの赤ちゃん』への、侵入の技巧の源流をうかがうことが出来る。
ドヌーヴは侵入しようとする「汚れ(=現実の生の穢れ)」を落とす、遮断することに懸命になる。このことが、かえってドヌーヴの美貌を磨いてしまい、汚れを寄せ付けてしまうという皮肉。傾いたまま美を誇示する(姉が送る写真にある、イタリアの斜塔のような)。このへんの観察も的確で、ポランスキーの嫌らしさが良く分かる部分。
あと、これカッティングがものすごく怖いですね。『ローズマリーの赤ちゃん』の「肉」のカッティングの原点も観られますが、おかしな楽隊を見つめ続けるカットの異様な長さが実に気持ち悪くて素晴らしい。
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