[コメント] ニュー・シネマ・パラダイス(1988/仏=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
●まずはトト少年の「可愛さ」というのが理解できない。
かなり奸智に長けた少年であることは明白なのにも関わらず、劇場の幕の間からひょっこり顔を出して無邪気にニッコリした表情を見せられても・・・。何かにつけて頬杖ついてさも可愛らしく「ヤレヤレ」って顔するのも頂けない。コレはおそらくトト少年自体が頂けないというよりは、そういう子供をただ可愛く見せようとするカメラ、演技のつけ方が頂けないといった方がしっくりくる。そのせいで、どうも自分には「狡賢いのに加えて、自分を可愛く見せる術を知っているヤな感じの少年」としか写らない。
だいたい友達と遊びもせず、映画館とアルフレードの話しかしないと言われている「少々変わった」少年が、何ごともないかのように普通に学校生活を送り、悩んで挫折してなんてエピソードも特に挟まずにトントン拍子に自分のしたい事を実現していくって筋書きだけでも「何だよ、ソレ?」ってな感じ。
それに関連して、アルフレードが小学校卒業試験を受けるエピソードも嫌い。自分の人生を半分諦めていながらも、それでも小学校くらい卒業したいというほのかな希望を抱いている屈折したキャラ。でもいくら卒業したいからって、トトの親との誓いを引き換えにしてまで、子供にカンニングをせがむほどプライドのない人物なのだろうか。学がないからって、少年の母親の苦しみや悲しみが十分理解できないってワケでもないだろうし。この時点で所詮アルフレードもトト少年の希望を実現する道具的なキャラに思えてしまい、とたんに彼への興味も失せる。
青年時代のエピソードに言及すると収拾つかなくなりそうなので、ただ「彼の映画の中で必ず見かける、甘ったるい主人公とヒロインの描き方に辟易」ということだけ付け加えて、最後。
●果たして彼の職業が「映画監督」である必要があるのだろうか?
かけるさんのおっしゃる通り、コレは「映画への愛」の映画ではなく苦い喪失の物語だと思う。ただ個人的に不思議に思うのは、だったら少年時代からひたむきに映画や映画館へと向かう主人公の姿を追う必要があるのだろうか、ということ。彼の人生の傍らにはいつも映画があるという描き方をする一方で、最後には映画館の崩壊をもって大衆娯楽としての映画の時代を終わらせてしまう。それをただ感傷の目で見送る彼は何を期待して映画を撮っているのだろうか、というのが不可解極まりない。やはり映画をノスタルジーをかき立てるための「道具」として使っていると言わざるを得ない。気にならない人には気にならないのかもしれないが、少なくとも「映画」という分野でソレをやって欲しくないってのは、どうしても譲れない。
というワケでラストで彼が見て涙を流すフィルムも、厳密に言えば「映画」ではない。考えてみれば映画に携る人間にとってコレは、理不尽な扱いを受けた残骸のつなき合わせとして、違う意味で胸が苦しくなるものだが、この映画でソレを最後にもってくる意味は、そんな映画への思いとはまた違い、少年時代に欲しがってやまなかったモノを目の当たりにした時の「ノスタルジー」でしかない。しかしこれを「映画」というメディアでやるのはあまりに紛らわしい。といえばいいか、視覚的なインパクトと音楽をもって、混同させるのを狙ってやってるようにしか思えない。そのあたりに何ともいえないイヤらしさを感じずにはいられない。
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とはいえ、以前見たときよりも不快感は(少しだけ)軽減した。『海の上のピアニスト』や『マレーナ』に比べると、冒頭の主人公の表情にかかる風鈴の影や、ほつれていく毛糸や、崩壊寸前の映写室の主人公の影など、(それが秀逸な表現かはともかく)少なくとも映像面ではアイディアを見せようとする意気込みは感じられた。それすらおざなりだとしか思えない後の作品のことを考えると、トルナトーレ氏の代表作は本作品であることに異論はない。
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