コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] マディソン郡の橋(1995/米)

男にとってこんなに都合のいい女はいない。
町田

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







明日、家族が帰ってくる、これ以上一緒にいることは不可能だ、とハナから立ち去るつもりでいたイーストウッド。そんなイーストウッドの態度にメリルはぶち切れる。「なんでそんなに簡単に諦められるの!?」

このときのイーストウッド、「意外とめんどクセェ女だな・・・。」とは思わなかったろうが、軽薄な男だと見くびられてカチンと来たのは確かだ。

思わず云ってしまう。

「俺がカメラを手に世界中を旅してたのは貴女に巡り合うためだ!」

うわー、である。

そして態度も一変。「なら、一緒にどこかへ逃げよう!」

これを聞いてメリルは一安心、ご満悦といった感じで前言を翻す。

「やっぱり、ダメ、子供たちがいるから・・・。一緒にはいけないわ。」

・・・。

このときのイーストウッドが顔中で、「してやったり」と云ってるように見えたのは俺だけだろうか?

結局、クローディア夫人というキャラクタは、メリル・ストリープの天才的な把握力をしても、男(=原作者・脚本家・監督)が思い描いた理想的な女性、悪く云えば都合のいい女、であることを越えることが、最終的には、出来なかったのだと思う。

イーストウッドが演じたカメラマンも、女性の意思を尊重する、というよりは、なんでも他人に決断させて重大な責任から逃れようとする、いってみれば単なるヘタレで、それは結局最後の最後まで変わらず、上腕二頭筋のたくましさ以外には何の取り柄もない濡れネズミ野郎であった。

そうコイツらは魅力的な人間じゃない、しかしそれだから映画もダメだ、などと云っているのではない。実際、こういった女性も、男性もいくらでもたくさんいるだろう。第一、俺はダメ人間が嫌いじゃない。不倫なんて絶対ダメ、と云っているのでも勿論ない。映画に倫理や道徳を求めるほどバカじゃない。

俺が云いたいのは、そんなもんを必要以上に美化する必要はない、ということだ。息子(←この息子のキャラ造型の深みのないこと!)や娘の理解など得る必要もないし、子供も子供でそんなことをきっかけに自己の家庭を見直す必要などない、と詰まるところそれだけである。

それでこそメロドラマじゃないか!と仰る方もいるだろうが、だからこそ俺はメロドラマというジャンルが嫌いなのである。

じゃぁ、なんで観たんだテメェと云われると、そりゃ『許されざる者』との「二本立て」だったからだよ、なーんてヘタレた言い訳はしない。二本立てだとしても観たくない映画ならは俺はガンガン退場する。金よりも時間の方が勿体無いからだ。

つまり俺は今、クリント・イーストウッドの「作家性」に非常な興味を持っているのである。俺は彼の監督作品を未だ4本しか観ていない、筋金入りのドシロウトなのだが、新作『ミスティック・リバー』を観てその不思議な作家性(私的制裁を是、致し方なしとするネオコンの喜びそうな物語にハリウッドきっての左寄り俳優ペン&ロビンスを起用するという両価性、その上で両論併記の曖昧さに堕さず、明確なる信念を打ち出した強さ)に魅了されたのだ。

で、新たに二本鑑賞して、気付いたことがたくさんあった。(往年の熱烈なファンの方々にとっては何を今更な話なわけだが)

ざっとリストを観てイーストウッドには犯罪や不貞を題材としたものが多い。

特に最近は、新人ミステリ作家の原作ものが多く、熱心なミステリファンだったりするのだろうか考えたことも在った。

しかし勿論、これは明らかな誤りであった。彼の興味はトリックだの、犯人は誰、だのそういうことではなく、犯罪そのもの、或いは犯罪心理に向かっているのだ。

それも、例えばコリン・ウィルソン的な興味本位(*彼の一連の書籍は、或る事件にどのような奇抜さ・新奇さ・犯罪史的価値があるかという「興味」を「本位」にしている点で、興味本位であると云って差し支えないと考える)なものではない。イーストウッドにとって事件の細部や時系列などは多分どうでも良いことなのだ。

人は何故それを悪と知りつつも尚、それを行うなうのか

彼の興味は明らかにこの一点に集中している。

ミスティック・リバー』と云った犯罪映画は勿論、西部劇である『許されざる者』も、チャーリー・パーカーの伝記映画である『バード』も、そして基本的にはメロドラマである本作『マディソン郡の橋』でさえも、一環してこのテーマが扱われている。

話をこの映画に戻そう。この映画の主人達は「不倫は悪である」ことを知っている。ここで重要なのは、「不倫という行為は反社会的行為であると教わってきたし、或いは世間でもそういわれている、だからイケナイ」、というのでは無く、自己の感覚として知っているということだ。(そんなお題目の善悪論を唱えるのは出来の悪い息子と酒場の客だけで十分である。)

「彼と不倫をすると愛する家族の者を傷つける」、或いは「彼女と不倫をすると彼女の居場所を奪うことになる」という、その結果に対する恐れから、二人は「我々が今、行おうとしていることは悪である」こと知っているのである。

であることを知った上で、それでも行ってしまう、そこに人間の弱さと美しさがにじみ出ているから、この劇は成立するのである。

だから、俺がこの映画を楽しめたのは前半だ。男と女のけして相容れないディスカッション映画として見ても面白いし、キッチンに於けるメリルとイーストウッドの掛け合いはスリリングでさえあった。そして俺的クライマックスとは、メリルがイーストウッドに電話で「それでも会いたいの、橋に来て欲しい」とハッキリ意思表示をする(一件地味な)シーンに他ならない。

これ以降、物語は急速により単純で通俗的なメロドラマと化して行き、何度目かのセックスを終えた後には、本当に只の、歯の浮くようなお昼のメロドラマに堕してしまう。(小道具の使い方なんてなんてロマンスティック!)

しかし、この原作でこれ以上の映画を作ることもまず不可能であろう。やはりイーストウッドは大した映画監督である。

(*ベストセラーとなった原作(当然、未読)は実話を基にしているとのことだが、実話だからこそ過剰に美化されているのであろう。台詞の白々さは名作『カサブランカ』とタメを張る)

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (9 人)けにろん[*] KEI 赤い戦車[*] 煽尼采[*] IN4MATION[*] kazby ダリア ナム太郎[*] 緑雨[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。