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[コメント] マディソン郡の橋(1995/米)

厚い時間の層を感じさせる、緻密なディテールの積み重ね。台詞も、ショットも、表情も、全てが圧倒的に「時間」を背負っている。二人が微妙な感情のあやを触れ合せながら関係を深める過程は、淡々とした中にも、重い時間の層が動くドラマ性が迫ってくる。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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カメラのレンズ越しに見つめた一瞬を写真に残す為に世界中を旅してきた男と、少女らしい夢を抱いてイタリアから移り住み、やがて幻滅を覚えながらも家族との生活を守り続けてきた女。この対照的な二人が偶然に出逢い、何げない会話の中で、躊躇、戸惑い、遠慮、微かな反撥を交錯させながらも、少しずつ距離を詰めていく過程が緊張感に充ちている。

勿論、二人が愛情を交わし合い、やがて別れることになる結末は最初から劇中で語られていることなので、何か予想外の出来事が起こるわけではない。そうしてやはり思う。映画はプロットやストーリーではなく、それが演技、撮影、編集、音楽によって、どのようなディテールで描かれているかなのだ、と。この「ディテール」という言葉は、劇中でフランチェスカ(メリル・ストリープ)が、家族との日常を指して何度か口にしていた言葉だった。

音の扱いが実に繊細かつ緻密。例えば冒頭の、家事に追われるフランチェスカの様子を描いたシーン。彼女が「夕飯よ」と家族を呼び入れると、まずやって来た息子が大きな音を立てて扉を閉める。それを注意した直後、今度は夫が大きな音で扉を閉める。娘はラジオのチャンネルを変えて騒がしい音楽を流し、虫の羽音が聞こえてフランチェスカは手で払う。フランチェスカ自身が不満げな顔をしていなくても、客観的な状況として彼女の閉塞的な生活が印象づけられるのだ。

橋の外観が目に入るのは、恐らくエンドロールの空撮だけであったように思う。劇中では、フランチェスカに案内されたロバート(クリント・イーストウッド)がカメラを構えて画を探している時、フランチェスカは、屋根付橋であるローズマン・ブリッジの上の暗がりを歩いている。鳩が喉を鳴らす音。羽ばたき。虫の羽音。その中をただフランチェスカが歩いているだけの光景に、やがて彼女の隠れた感情が光の下に現れる予感を漂わせている。後に同じ橋で二人が逢瀬を楽しむ場面では、聞こえてくるのは鳥の囀りと、虫の歌声。フランチェスカも「蝶々が飛んでるわ」と嬉しそう。

ロバートとフランチェスカが晩餐をする場面での、ロバートがラジオのチャンネルを回してロマンチックな曲を流したタイミングでの、ドレスアップしたフランチェスカの登場。良い雰囲気になった所に鳴り響く、電話の呼び鈴。また夫からの電話かと思わせるが、友人からのもので、安堵した様子のフランチェスカは話しながらロバートの体を撫でる。こうした、二人の築きつつある世界を壊さない程度に、「外の目」の存在を匂わせる演出によって、甘い恋愛劇に適度の緊張感を加えている。

不倫が知られて村八分にされている婦人の様子を見たロバートが、フランチェスカを気遣って、逢うのを止めようかと電話したのに対し、「私は逢いたい」と答える彼女。こうした場面での、メリル・ストリープの吹っ切れたような表情、自分の感情のくびきを外し、そのことで自身の感情の強さをも再確認した喜びに充ちた表情が素晴らしい。これは彼女が、穏やかな表情の下に、やり切れない思いを封じ込めたような様子を何度も見せ、苦しげに溜息を幾度か吐く演技を見せていたからこそ、彼女が人生最後の冒険を行なうさまが感動的なのだ。

最後に二人が顔を合わせる場面での、雨に濡れたロバートの、老いを晒しながらも真剣な面持ちで立ち尽くす姿。それを見つめるフランチェスカの、溢れ出しそうな感情を湛えた表情。聖フランチェスコのネックレスを車内のミラーに吊るし、後ろの車に夫と乗るフランチェスカに、無言の内に、最後の訴えかけをするロバート。遂に別々の道を進む二つの車、その別れ際、フランチェスカの視界からロバートの車が消えようとする時に夫が窓ガラスを閉じるタイミング。雨が伝う窓ガラス越しのこの沈黙の内なる激しい感情の遣り取り――。

このフランチェスカの回想シーンが終わった時、彼女の娘が、母の残した白いノートを愛しげに指先で撫でる様子。最初は反撥していた母の遺志通りに、彼女の遺骨を橋の上から散骨する場面での、カメラが捉えた空に延びる、一筋の飛行機雲。そして空撮によって、彼らが暮らしていた街、家、そしてあの橋が、逝ったフランチェスカの死後の目に見つめられるようにして捉えられていく。彼女にとって世界の全てであったこれらの空間は、何と小さく、慎ましいものであったのか。

題名にもなっているローズマン・ブリッジは、街から離れた所にある古びた屋根付橋=covered bridgeであるという点で、人目を憚る密かな逢瀬、積み重なっていく時間、という二つの主題の暗喩ともなっている。また、傍目には特別美しいとも思えないこの橋を撮る為にやって来たロバートが、フランチェスカを美しいと言い、「君に会う為に、これまで写真を撮って来たんだ」と告げることを考えれば、橋は物語の暗喩でもあるだろう。

フランチェスカがロバートの肉体を求めたのは、単に情欲の為なのだろうか。劇中で彼女の言葉として「情欲」という言葉が出ては来るのだが、新天地としてやって来たアメリカに幻滅した彼女にとって、その地で育んできた家庭生活をもう一度自らの意思で引き受けるには、ロバートという、一つの場所に囚われない自由な肉体と一度交感し合う必要があったように思える。

ロバートは、フランチェスカと共に詩を詠んだり、並んで料理を手伝ったりと、彼女と同じ目線で同じものを見る男性として現れる。だからこそフランチェスカも、旅人である彼にかつての自分の夢を投影できたのではないか。イェーツの詩は、自分のアイルランドの血に馴染むと言うロバートは、放浪者でありながらやはりルーツを求める気持ちがあることも垣間見せている。このことが、彼がフランチェスカという一人の女性に自分の求め続けていたものを見出すことの説得力を間接的に与えているようにも思える。

すっかり生活感に染められた主婦であるフランチェスカが、徐々に女としての最後の瑞々しさを取り戻していく様も印象的だが、冴えない男に見えていた彼女の夫が最後には、自分への裏切りも含めた妻の全てに対する包容力を感じさせる老いた夫としての姿を見せたのもまた、感動的。

(評価:★4)

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