[コメント] トニー滝谷(2005/日)
村上春樹の研ぎ澄まされた言葉の音列が西島秀俊の朴訥とした語りで意味を失う寸前に、現れ・流れ・消えていく幻視のような情景の中へ坂本龍一の奏でるピアノの一音一音によって打ち込まれて行く。市川準が組み立てた孤独の実写映画。
これほどまでに言葉(文字ではない)に溢れ、かつ言葉の力を映像に採り込むことに成功した日本映画を知らない。私は観終ってすぐに、原作を読み返してみたいという強い衝動にかられ本編が収められた「レキシントンの幽霊」を9年ぶりに手にした。そこには、市川準によって抜き取られる前の膨大な量の言葉と、映画とほぼ同じ物語が書き込まれていた。
それで合点がいった。やはり村上春樹の言葉ありきだったのだ。まず市川は、原作から丹念に必要な言葉を抜き出したのだろう。そして、抜け落ちてしまった膨大な言葉の欠落部を映画として再構築するという方法をとったのだ。そのために準備された、茫洋とした孤独感を漂わせるイッセー尾形(それは、彼の一人芝居という芸域によるところが大きい)と、華やかさとはかなさを持ち合わせた宮沢りえ。現実でありながら、どこか夢との境界を失ってしまったような広川泰士のキャメラ。そして西島秀俊のナレーションと、そのつぶやきをくさびのように映像の中に打ち込むための坂本龍一のピアノ。
原作と映画を比較して云々する習慣のない私だが、ここまでみごとに言葉を映画として再構築してしまう市川準の力量には驚かされた。それとともに、ここ数年「文字」によって汚され尽くしたテレビの画面と言葉を軽んじる映画群に辟易としていた私としては、この言葉と映像の融合が実に新鮮でうれしかった。やはりコミュニケーションの原点は言葉なのだから。人間は「言葉」を持った唯一の動物なのだから。
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