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[コメント] ビッグ・フィッシュ(2003/米)

ホラ!あの中に私たちもいるよ。
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 この作品、二つの意味で私のツボにはまった。

 一つにはこの設定。ホラ吹きを主題にしてると言うこと。

 古い思い出になるが、私は素敵なホラ吹きになりたかった。これは昔、NHKの人形劇で「笛吹童子」という番組をやっていて、その中で嘘ばっかり言う人物が出てくるのだが、そこで彼は「俺は嘘つきじゃなくてホラ吹きだ」と誇りを持って主張していた。うろ覚えだが、確か「嘘つきは人を傷つけるけど、ホラは人に希望を与える」みたいな事を言っていて、子供心に、人に希望を与えるためにホラを吹くって、結構格好良いんじゃないか?とか思ってた…思えば全然面白くない人間になってしまったもんだな(苦笑)

 …それはまあ、置いておいて。

 これは実は映画の本質に関わっている。映画とはそもそも壮大なホラ話である。と言う根本的な点を再認識させられた。

 映画とはそもそもあり得ない話をどう観客に楽しんでもらえるか。と言うところにその本質がある。映画とは所詮フィルムに過ぎず、言わば動く写真、極論すれば動く絵空事に過ぎない。生の感触として手に触れることも出来なければ、語りかけたとしても、それに答えてくれる訳でもない。

 しかし、映画は人を感動させるし、人生の意味を捉え直す人もいる。人生の意味を見いだす人もいるだろう。結局映画という虚像、つまりホラの中に希望を見いだす事も可能だということ。嘘ではなく、ホラだからこそ、それが可能なのだ。

 それにホラというのは、繰り返し聴かされるあるいは観ることで、より多くの人が同じ体験を得ることが可能となる。これは重要なことで、これがやがて共通体験になっていくものだ。ホラとは決して聞いて終わりじゃない。それについて人と話すことで本当に楽しくなっていく。映画も同じで、単純に観るだけで終わらせることなく、語ることで、それが体験として残っていく。あたかも良くできたホラ話をみんなで思い出して語るように…近年になって私もその楽しみをはっきり知るに至ったのだが。

 ホラというのは、受け止める人間によって変わるし、それを自ら表現して、語り合うことで自分自身の体験にもなっていくものだ(山本茂美の書いた「あゝ野麦峠」で製糸工場で働いていた女性達が、不思議と同じ笑い話の体験を持っていたと言う下りがあった。事実ホラとはやがて自分自身の体験になっていくのだよ)

 本作が壮大なホラ話を主題としているって事は、つまり映画そのものを表してるって事であり、ラストシーンで談笑する面々とは、今ここで映画について語ってる私たちの姿でもある。

 …私の妄想かも知れないけど、ここまでバートン監督が考えていたのでは?と思わせたところで、彼のホラ話は私には有用だった。

 そしてもう一つ、私にとってのツボってのは、私は「家族を作る」物語ってのに極端に弱いってこと。実はどれだけ自分が愛されていると言うことに気付き、反発しまくっていた主人公が変わっていく物語は、どれほどベタでも駄目で涙腺がゆるんでしまう。正直バートンがそんなものを作るって事で疑問視していたんだが、蓋を開けてみたらどうだ。やっぱりやられてしまったよ(笑)

 ここでの息子ウィルは父に反発心を覚えているので、一番たくさん父エドワードのホラ話を聞かされていながら、反発心からそれが受け入れられないでいる。自分はエドワードとは違った生き方を求め、現実しか必要のないビジネスに身を置いて、現実の中に生きていた。

 だが、反発心から選んだ職業であったため、それがいくら理想と思っていたとしても、彼の本質はそれを受け入れられずにいた。前半で見せるウィルの、口をきっと結んだ固い表情にそれが現れているだろう。笑顔を見せることがあっても、それはぎこちない笑顔で、前半部分の彼は本当にぴりぴりした雰囲気を身にまとっていた。

 だが、それもエドワードの死という現実を受け入れねばならない事で、徐々に変質していく。単なる肉親の死でしかなかったものが、義務感から死の床の父につきあっていく内に、変質していく。その過程が見事。クラダップって、こんなに巧い役者だったか?

 そして最後、ウィルは父の死を受け入れた時、同時に自分自身をも受け入れていた。そう。本当はホラを語る父が好きだったこと、何よりも、自分自身がストーリーテリングすることが大好きだったと言うことに。

 かつてエドワードは魔女の目の中に自分の死を見て、「信じられない最後だった」と言っていたが、最愛の息子が、実は自分と同じ本質を持っていた事を知らされた。自分のホラは脈々と受け継がれていくだろう事を知った。それこそが本当に「信じられない最後」だったのかもしれない。ちなみに「Big Fish」というのは英語の諺の一部で、正確に引用すると、「a big fish in a little pond」(井の中の蛙)というものだが、エドワードは自分が決して「井の中の蛙」ではなかったことを知らされることになる。これは素敵だ。

 ホラとは、まさに人を生かすものである。

 キャラクターも良いねえ。ヴェテランのフィニーはやっぱり巧いけど、表情の変化でしっかり感情を表現していたクラダップも良い。それに脇を固めるのがスティーヴ=ブシェミーとかダニー=デヴィートだろ?いやはや。やられたやられた。

 よもやバートンがこんなものを作り出すとは。勿論彼らしさと言うのもかなり多く見受けられるけど、彼自身が父を亡くしたと言うことが、自身の本質も少し変えていったのかも知れない…自分自身の話をすれば、この作品を観るつい一月ほど前に私も祖母を亡くした。それも多分この作品を受け入れられた理由なんだろう。

 素敵なホラを吹けるような人間になりたいってことを、改めて思わされたね。

 …しかし、こういう事もあるもんだな。映画館出た瞬間では★3。車に乗りながらコメント考えてる段階で★4。実際に書き綴っていたら★5になってしまった。

(評価:★5)

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