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[コメント] 日本の黒い夏―冤罪―(2000/日)

制服の女子高生の「良心」。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







オウムの松本サリン事件は、あきらかにそれまでの私達の想像力の外にある出来事であって、あの冤罪紛い騒動が起こったこと自体はさもありなんと思わないこともない。得体の知れないカルト教団が密かに毒ガスを製造して、それをしがない田舎街の住宅地に散布するなんていうことを、あの事件以前に誰が想像し得ただろうか。オウムを事件以前から追跡していた人達はあるいは気付くことが出来たのかもしれないが、当地のマスコミやその視聴者がそんなことを想像力の内に置くことなど有り得ないことだったろう。

この映画は劇映画だ。河野氏は「神部氏」、オウムは「カルト教団」と置き換えられていて、実際の松本サリン事件や冤罪紛い騒動の本質に直接迫っていくというものにはなっていない。制服の女子高生にマスコミや視聴者のあるべき「良心」を代表させ、彼女の取材に応えるマスコミ関係者とのやり取りを軸に、回想形式で事件のあらましを追っていくという構成になっている。

観ていて率直に思わされるのは、「これは私達のリアリティではない」ということ。事件のあらましを追っていく前半部でこの映画に流れているリズムは、TV等の映像メディアを通じて形成される現在の私達のリアリティではない。言ってみれば、それは新聞等の活字メディアによって形成されるリアリティであって、脚本に沿って演じられていく古典的な劇映画のリアリティだ。たとえば中井貴一の鷹揚な、まさしく劇映画的な「演技」、またトクダネ第一主義に走り回る与太者の如き記者のキャラクター造型、それら自体がダメだとは思わないが、彼らには(素人の自分からみてさえも)90年代のマスコミに属する人間というリアリティに欠けているように思われる。「あ、こんな状況の中でついあんなふうに流されていってしまうんだな」というようなリアリティ、あるいは「あ、こんな瞬間に報道の方向が決定的に転換されたりするんだな」というようなリアリティ。そんなものがない。マスコミと一口に言ってもそこに携わっているのは具体的な人間達であって、その人間達の脳裏にその都度状況の中で暗に形成されていたであろうリアリティの内部を解剖してみせるような見せ方をしてみせないと、送り手の間にも受け手の間にも映像が氾濫する現在のメディアが形成するリアリティには追いつけないのではないか、そんなふうに思えた。

そんなわけで、前半部はどうも現在のメディアというものを捉えそこなっているように思えて疑念が晴れなかったのだが、冤罪紛い騒動の描出から解放されるあたりから(つまり「カルト教団」が物語の俎上に上る頃から)、映画は多少調子を取り戻していくように思われる。現在のマスメディアを捉えるには鈍重さをしか覚えさせないような古典的な劇映画のスタイルが、ある種の反抗を現実に対して起こすというような様相を見せる。つまり、たとえば映像メディアが氾濫するスタイルをもし映画のスタイルとして(批評的にせよ)取り込んでしまったならば、逆にスタイルの中に埋没して失われ、描き出すことのできなかったかもしれない「人間」。そんなものが見えてくる。「カルト教団」の毒ガス散布を再現するシーンは(もしかすれば当事者の人達には恐ろしくて見ていられないものかもしれないが)、あの毒ガスが「神部氏」はじめ、そこにふつうに暮らしていた人達の生活を無残に破壊したのだというその事実だけは少なくとも強烈に焼き付ける。だから、その「神部氏」夫妻が池のほとりに佇むシーンには不覚にも泣けてしまう(桜並木、ふっと婦人の顔を照らす陽射)。それは映画としてベタと言えばベタ、古臭いと言えばあまりに古臭い見せ方かもしれない。だがそれは、もし映像メディアの氾濫するスタイルを取り込んでいれば、描き出せなかっただろうものでもある。それは結局、制服の女子高生に代表される「良心」の根拠へと回収されてしまうのだろう。だがそんな「良心」は、自分はそんなに嫌いではない。守るべきものを見出した「良心」は安易に独善に転倒したりはしないだろう。

だから、☆3つ。

(評価:★3)

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