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[コメント] 希望のかなた(2017/フィンランド)

あっけらかんとしたご都合主義は極点にまで彫琢され、寓話の外部にある現実の過酷さが行間から浮き彫りにされる。カウリスマキの物語話法の一大成果。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まるで失敗することが禁じられたような世界だ。サカリ・クオスマネンがポーカーでバカ勝ちするのはまだ喜劇の常套手段の範疇だが、以降このご都合主義が全面展開される。

彼がシェルワン・ハジに仕事を与える件など相当に妙ちくりんだ。ただふたりが殴り合いをして、クオスマネンはゴミ捨て場を占拠されると困るというだけの前振りなのだから。惹句にある「みんなで救う」などという『ル・アーヴルの靴みがき』のような積極的な善意はどこにも見当たらない(ただし、行政の連中には絶対に告げ口をしないという『ル・アーヴル』にもあった倫理観は踏襲されている)。しかし、ハジはこれで救われてしまう。

これ以降も失敗は取り消され続ける。クオスマネンはいかにも唐突に妻とヨリを戻し、フィンランド解放軍(こういう輩はどこにでもいるものだ)に刺されたはずのハジがにっこり微笑むラストに至ってこの成功ばかりの天然な世界は完結してしまう。何で笑っているのだろう。妹もまた自分と同様に入管に拒否されるのは判り切っているのに。

これはもう、裏目読みをしなさいと語っているとしか取れない。これら成功は寓話でしか果たされないものであり、現実は全て失敗に終わるのだと行間で示している。現実のハジは入管に拒否されたまま職になどありつけず極右に犬のように殺されるだろう。現実のクオスマネンが事業に愚鈍に失敗するように。

コルチャック先生』のあの驚嘆の収束を想起するべきだろう。「ラフィング・サム」というサローヤンの短編もまた想起される。惨めな仕事を与えられ、いくら虐められてもいつも笑っているサム。語り手はある日、そのサムの笑顔は実は泣き顔だと突然に気付くのだった。近づかないと見えない世界がそこにある。サムもまた移民だった。

パンフで監督は静かに怒っている。これは傾向映画(!)だが「そんな企みはたいてい失敗に終わる」、だからユーモアと正直さとメランコリーが残るよう仕上げた。しかし一方、この映画は現実を描いている、と語る。失敗を訴える傾向映画とは別の語り口でいかに現実を語れるか、という探求の成果が本作の複雑な話法だったと捉えてよいのだと思う。

その意味でThe Other Side of Hopeというタイトルに含蓄が感じられる。監督のこれまでのアッケラカンな肯定作品群も、ここから読み直しが必要なのではないのだろうか。

この成功ばかりの世界での失敗は二点、自称解放軍の凶行と、アレッポは平和だとの詭弁を堂々弄するマヌケな入管の宣言だけであり、これがグロテスクに強調されている。ハジが入管審査でフィンランドを平等の国と訴える件は美しい。フィンランドは外国人から褒められた自国の美点を自ら否定してしまっている。なんと滑稽なことだろう。

寿司レストランの件、これは日本政府への皮肉と受け取った。BGMで流されるのは「竹田の子守歌」。これがレストランに不似合な放送禁止の部落差別告発の歌であるとカウリスマキは承知して使っているだろう。同様に日本の排外的な移民政策を承知して非難しているはずであり、山葵テンコ盛りの寿司を喰わされたのに楽しそうに帰っていく日本人客は揶揄われているのだ。限定発売の帆前掛けゲットして喜んでいる場合ではないのである。

背景はブルーないしエメラルドグリーンの色調でほぼ統一されており、メルヴィルも想起させられる。冒頭の港の空の青などとても美しい。酔っ払い聖者たちのギター演奏をじっと眺めていたハジが突然に民族楽器を奏でる件が心に残る。ハジのような真摯な人、「世界一のお兄さん」がなぜ現実には救われないのか。心が痛む。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)けにろん[*] 動物園のクマ[*] jollyjoker[*] 水那岐[*] 袋のうさぎ

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