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[コメント] 人のセックスを笑うな(2007/日)

犬猫』で既に明らかすぎるほど明らかだったが、井口奈己は相当勉強熱心な監督だ。何をどう撮れば「映画」になるかを頭で理解できている。そして、それを血肉化し、厭らしさを感じさせずに提示できるところこそが彼女の才能なのだろう。
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ファーストショットから「上り坂」と「下り坂」をワンフレームに収めた画面。永作博美がゆらゆらと坂を下り、中央では黄色い風船がかすかに揺れている。何が起こるのだろうと注視していると不意に犬が画面右から左へ横切る。続くショットでは裸足の永作が駆け足で暗闇のトンネルに吸い込まれてゆく。このようにして、これが「映画」だろ! と云わんばかりの主張の強いショットで映画は幕を開け、厳密な演出・撮影と自由度の高い演技の両立が全篇にわたって持続している。

そして、これは「見ること」の喜びと困難を感じさせてくれる映画だ。画面上のあらゆるものが観客の視線を要求している。会話シーンに限れば、それは「話し手と聞き手の演技の重要性が等価である」と云い換えてもよい。ロング・固定・長廻しはそのための撮影スタイルでもあるだろう(逆に且つ極端に云えば、「話し手だけを撮ったショット」あるいは「聞き手だけを撮ったショット」を繋げていくという一般的な会話シーンのモンタージュは、その映っている話し手なり聞き手なりの演技のほうが映っていない人物の演技よりも重要であると映画の側から決めつけている、ということになるでしょう)。

たとえば松山ケンイチが初めて永作のアトリエを訪ねたシーン。画面左の松山と画面右の永作が「オブジェ」について話している。会話の主導権はどちらかと云えば永作にあるが、松山のリアクション演技も永作と同程度に重要であり、どちらか一方を見ればよいというものではない。また、会話の主題となっているオブジェ(画面中央奥に位置している)も観客の視線を要求するだろう。要するに、このシーンをじゅうぶんに「感じる」には、観客は少なくとも松山・永作・オブジェの三つに視線を注がなくてはならない。これはとても困難な行為だが、観客にとってこの上ない喜びでもある。

同様の例をもうひとつ。画面中央で温水洋一が授業をしており、その手前で松山と忍成修吾が私語を交わしているシーン。声の音量と明瞭さの絶妙な具合もあって、観客は温水と松山・忍成の双方に同等の注意を促されるだろう。さらに忍成があげた驚きの叫び声を契機として画面右の蒼井優が松山のほうを向くに至って、観客は蒼井を見ることの必要にも気づくだろう。

「見ること」の喜びと困難。それは映画の醍醐味だ。上に挙げた例のような「画面上の至るところに意味を付与すること」ばかりがそれを観客に与える方法ではないが、それをスマートに行うにはやはり相応の才能と技術が必要とされるのだろう。五十年前ならいざ知らず、現在の日本映画でこの水準に達している作品は稀有だ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (8 人)ちわわ サイモン64[*] 煽尼采[*] 太陽と戦慄 緑雨[*] ぽんしゅう[*] shiono[*] moot

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