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[コメント] アカルイミライ(2002/日)

曖昧さを保つことで未来は未来たりえる。(レビューはラストに言及)
グラント・リー・バッファロー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







映画と向き合う姿勢がまだまだ未熟な私からすると、黒沢清の作風、極めて抽象度の高い対象(それが人物の形をとるときもある)を登場させ、登場人物たちがそれを前提に行動し発話する構造には、いつもどこか受け入れ難いものを感じる。本作におけるクラゲもしかりで、登場人物たちがそれを所与のものと受けとめ、それについてああだこうだとこれまた抽象的な見解を述べられても、なんだか地に足のつかない、もどかしい気持ちにだけさせられる。ピコピコの仮面をつけた集団で盗みに入ったところで、またいつもの黒沢節が始まってしまったかと思わせた。

しかし、トータルで考えると本作はわかりやすかった。正確に言うなら、わかったような気にさせてくれた。

オダギリジョーは、浅野忠信が先にやらなければ、間違いなくあの工場長を殺していた。それが事実であったかどうかは別として、昔は自分も暴れていたという意識をもちながら、今の若者を「把握」しようとする「かつての若者」の姿は、オダギリにとってもっとも憎しみを抱かせる存在であった。自分の闘いがうまくいかなかったからといって、下の世代もどうせ失敗に終わるだろうと一種の諦念を押しつけることの無自覚さ、その未練がましい行動への腹立ち。だからといってその相手を消していいわけはないだろうが、(未来がある程度見通せる特殊能力をもっていたため?)ブラックボックスとして機能していた浅野がそのあたりを自己の存在と引き換えに闇の中に持ち去ったがゆえに、観ている側は残されたオダギリがどのように「行け」のサインを実行していくかに集中できた。

「多様化」という大義名分のもと標準化の規格が至るところにはびこっていく現在、安易な決めつけをおこなわず未来が本来持ちえる曖昧さを担保しておくこと、そんな当たり前でシンプルな状態を維持すること自体、結構難しくなってきているのかもしれない。

高校生たちが通りをだらだらと歩いていく。一度警察に敗者の烙印をおされた彼らをどう捉えるべきか。「おまえらの気持ちよくわかるぞ。俺も昔は…」などとぬるい風を送りながら、したり顔で近づいてくるオトナが一番うさんくさいし、何よりもそういうのが彼らの未来をスポイルしてしまう態度なのだろう。なぜか全員チェ・ゲバラのシャツを身につけた彼らの存在を否定し、激しい向かい風のように行く手に立ちふさがる、もしくはエールも何も送らず冷徹に彼らの行く末を遠くから見ている(無風状態を作り出す)、そういう両極的な対応のどちらかをとるのが実は望ましい態度なのかもしれないと個人的には思う。(二十代の折り返しを過ぎても落ち着きのない私は、大人気ないと蔑まれながらも、おそらくは前者の態度をとって彼らを睨みつけるだろう。)

本作は、いつもの黒沢清が扱ってきたテーマとなんら変わるところはない。その一方で、あのシーンをラストに持ってきたこと、薄っぺらさを肌で感じるデジカメの映像で灰色系統の色を不気味な形で目に焼きつけたこと(これが主流になったら困惑するが…)などは、今までの黒沢清作品とは微妙に味わいが違うとの印象を抱かせた。いつもより間口を広くとってくれた作品だと思う。素直によかったと言いたい。

*都会の川に突然現れたアザラシや魚の大群は、何かで過剰に埋めつくされた現代の雰囲気のいびつさに対する何らかの(一部としての)顕れ、もしくはいびつさそのものの視覚的な表現のようにも思える。

*(未登録に甘えて「些細な書き直し」で少し追記。)高校生たちのことで「北風と太陽」の話を思い出した。幼少の頃は、押してもだめなら引いてみろの太陽に一本とられたと思っていたが、今考えると強引に対峙する北風の態度のほうが潔いような気がする。

(評価:★4)

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