[コメント] マイノリティ・リポート(2002/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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原作について軽く触れておきたい。まず犯罪予防局について、ディックはあながち否定的に描いていたわけではない。というのも原作が問題としていたのは、警察権力のあり方以上に、平和時における軍隊の必要性に関してだった。犯罪予防局に軍隊のナチス的台頭に対する抑止力があることを描いており、アンダートンの物語は個人としての保身か、それとも身を挺して犯罪予防局を守り軍隊の復権を阻止するかという苦悩だった。そして、その苦悩の象徴として“少数報告”というテーマが緻密なプロットを形成していた。反面、プレコグを利用するシステムのグロテスクさに関しては、触れてはいても流していた。プレコグに人権問題を見出せるのは確かだが、そこに深入りしてしまえば、上に挙げた“警察対軍隊”を話の中心に持ってこられない。故にディックは黙殺していたのだ。また、“まだ犯していない罪を裁かれることの是非”に関する議論も、さほど成されてはいなかった。テーマは、あくまで“三つの異なるレポート”の存在により醸成された“犯罪予防局対軍隊”をめぐるアンダートンの心理的葛藤だった。
映画化に原作を踏襲する義務は必ずしもないが、踏襲しないなら別の大きな魅力が必要だろう。『ブレードランナー』の様に。この脚本は、“警察対軍隊”という最重要のテーマが完全に切り捨てられているが、その背景を手繰っていけば、現在のハリウッド映画に軍隊の必要性を問える余地などあるわけがないという政治的な理由に行き着くだろう。この映画化の結論である犯罪予防局の否定は、原作へのアンチなどでは決してなく、それこそただの“逃げ”だ。
そこへもってきて、原作がテーマのためにやむなく切り捨てていたプレコグの人権問題を持ち出すなど本末転倒だ。何故なら、原作にあって犯罪予知がプレコグ=人間に寄っていたのは、“予知される未来”という概念に取り敢えずの普遍性を持たせるためであり、同じ機能を果たせるものであるなら、何も人間でなくとも良かったはずなのだ。つまり人権問題を回避したいなら、プレコグという設定自体を変えてしまえばいい。“予知される未来”という概念の普遍性を物語上の約束事と割り切った上で、極度の管理社会における統計学により未来予知を可能としたスーパーコンピューターとでもすればいい。そして、一台のコンピュータに絶対はない、そこで三台のコンピュータが必要となり、必然的に“少数報告”が生まれる、これでいいではないか。或いはもっと簡潔に、ESPを持った動物にしてしまう手だってある。このように、そもそもプレコグの人権問題なんて二の次の問題であるがために、映画の後半40分が必然的に不要と感じられるのだ。
原作の表層をかすめただけの本質的な不足が、改悪した部分はこれにとどまらない。全部挙げるときりがないので、一番大きな問題を一つ。先に述べたように、原作の物語はアンダートンの公私をめぐる苦悩を主軸としていた。そこで最終的に発生したのは、自分が無罪になれば犯罪予防局のシステムは崩壊する、公僕としての責務を果たすには自分が犯罪者にならなければならない、というアイロニーだった。映画は、そのアイロニーを構造的に換骨奪胎して、オリジナルのアンダートンのアイロニーを形成しようとした。それをいちいち言語化すると、こうなる。アンダートンは、息子の弔いのために、殺人事件を撲滅しようと苦闘してきた。けれども息子を弔うために殺人を迫られる状況に追い込まれた。犯罪予防局に対する懐疑が前提となり、原作にあった“システムの存続をめぐる公僕としての苦悩”がすっぽり抜け落ち、アンダートン個人の感情の問題に収束してしまっているのも問題だが、それ以上の問題が一つある。このアイロニーに繋げるべく、アンダートンの苦悩をリアルなものにしようと、薬中なんて設定を立ち上げ、『JM』のたけしよろしく偏執的に家族を懐古させてみたり、その逃走劇も生々しく、時に滑稽にさえ描いてはみたものの、そもそもこの“正義の殺人をめぐる是非”というテーマ自体が別の映画のものだったのだ。
「あれ? これじゃあ、『セブン』と一緒だぞ〜? 駄目だ〜!」
というわけで、脚本はわざわざ捻出したオリジナルのアイロニーを謀略だったことにしてなし崩しにしてしまい、ここに来て原作通りのアイロニーを復活させる。ただしアンダートンはもう使えない。代わりに、あのジジイに押しつけてみる。が、原作とは善悪の立場が逆転してしまっている。当然、出された結論も原作とは真反対、犯罪予防局の否定である。だが、そもそもプレコグからの人権問題の抽出が見当違いなら、ジジイが犯罪予防局のためにアガサの母親を殺害するなんてエピソードにも、テーマに照らし合わせての必要性はない。『LAコンフィデンシャル』のロロトマシそっくりにウィットワーを謀殺したこのジジイが悪である必然性がない。とすれば、こんなプロットが出した結論に、何の説得力があろうか?
脚本が支離滅裂なら、演出も空疎だ。スピルバーグはSFノワールなんて戯れたことを言っていたが、過度に醜悪な人物描写等、現在の自分の負に満ちた人間観を徐に曝しているだけで、およそ風刺にもなりえていない。全てが悪趣味な蛇足だ。くわえて、相も変わらず貧困なSFセンス。あれだけハイテクな机上を見せておきながら、現場では猿のように取っ組み合う未来人達には開いた口が塞がらなかった。にもまして今回は、かつて観られなかったほどの激しいデジャブ、デジャブ。『AKIRA』をやりたかったとしか思えないプレコグの描写に、『トラフィック』調の無闇な画質の転換にと、枚挙に暇がない。既視観の羅列で未来像をでっち上げるとは、どういう怠慢か。言っちゃあなんだが、最近のスピルバーグにちゃんと撮る気はあるのか?
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