[コメント] 十三人の刺客(2010/日)
日本映画では、娯楽活劇として近年まれにみる醍醐味。ふたつの対立軸を際立たせることで、理屈ぬきのテンションの高さを生んでいる。
松平斉韶(なりつぐ・稲垣吾郎)の常軌を逸した暴虐非道ぶりが凄い。斉韶は、誰もが有無を言わずに納得する「純粋悪」として徹底的に描かれる。本来、新左衛門(役所広司)一党は、泰平の世にはからずも生み出された体制側の要人の命を狙う暗殺者(テロリスト)集団だ。現代社会の常識ではうとまれるはずの、この非合法戦闘集団の暴力の行使を無条件に認めさせ、さらに観客に満場一致のカタルシスを提供してしまう仕組み。その感情操作の道具として、理屈を超越して世間と敵対する真性サディスト斉韶(稲垣吾郎)は描かれる必要があったのだ。この、良い悪いの余地を排除した、暴力是認の対立軸の設定が巧みであり、実はこの映画の面白さの源のひとつだ。蛇足でいえば、今の世では「忠臣蔵」の吉良上野介程度の理不尽さでは、説得力やカタルシスは生まれないということだ。
二つ目の対立軸とは、集団戦闘シーンでの視覚演出のことだ。鬼頭半兵衛(市村正親)率いる明石藩三百余名のいでたちは、藩主から末端の侍にいたるまで全員が白い着物に丸い編み笠すがたをしている。一方、十三人の刺客は黒い鉢巻きに、足元をキャハンで固めた全身黒ずくめの戦闘装束のだ。単純なことなのだが、この衣装のユニホーム化が効いている(伊勢谷友介は少し違ういでたちだがチームカラーは黒だ)。火攻め、暴走牛、爆薬、迷路への封じ込めとパニック状態の乱闘のなかでも、敵と味方が視覚的にとらえられ状況が実に分かりやすいのだ。おかげで活劇のアイディアが効果をいかんなく発揮し、50分という長丁場の戦闘シーンにもかかわらず、ひと時も目を離すことができない緊張が高いテンションで保たれ続けるのだ。
安心して加担できる暴力と、分かりやすさが担保された混沌。常識や制約から解放された非日常のなかで、松方弘樹が、伊原剛志が、役所広司と市村正親が泥まみれ血まみれで、しかも華麗に切り結ぶ。いまどき、こんな魅力的な「娯楽」は映画でしか味わえないではないか。
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