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[コメント] 大日本人(2007/日)

擬似ドキュメンタリという形式を選択したことはきわめて賢明。狡猾と云ってもよいほど。
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なぜ擬似ドキュメンタリという形式を選択したことが賢明なのかというと、大きく三点に分けて云うことができる。

ひとつは「演技」。 主演の松本人志にしろ街頭でインタヴューされる人にしろ、取材カメラの前に立つ人物は皆「素人」という設定である。自然な演技ができればそれに越したことはないが、「素人」がカメラに向かって話すという設定なのだから、それが多少不自然な演技であってもまさに「カメラを意識して演技的になってしまった素人」の演技として成立してしまう。松本はおそらく自分の演技にそれほど自信がなかったのだろうが、以上のような理由からそれも擬似ドキュメンタリという形式の上ではほとんど問題にならない。

もうひとつは「撮影」。 はっきり云ってこの作品に突出したショットはほとんどない。「突出した」とは、「映画的興奮に溢れた」とか「強度に満ちた」とか、あるいはもっと単純に「凄い」などと云い換えてもよいけれども、そういったショットは生半可な努力・才能では撮れない。しかしドキュメンタリを装う限りにおいてはそのような「映画的な」「突出した」ショットは一応は必要とされないから、撮影に関してはとりあえず括弧にくくって物語・設定・細部のアイデアで勝負することができるようになる(とは云っても、私はそういった「凄い」ショットこそ見たいんですけどね。でも、なかなかよいショットもありました。自宅でのインタヴュー中に石が投げ込まれる長回しのフィックスショットとか、原付で変電場に向かう松本を後続する車から捉えたショットとか)。

最後は「映画と観客との距離」。 これは一点目の演技の問題とも絡むが、この作品においては、観客と映画内の現実との間には「ドキュメンタリ=取材者」が介在している。映画内の現実であるところの取材者の質問や、それに対する松本の回答・主張などと私たち観客の間には一定の距離(ワンクッション)が置かれているのだ。それによって取材者と松本のズレた問答やそのほかの諸々の事柄は端的に「ボケ」であると同時に、分かりやすく「批評」として機能するようになる(この「分かりやすさ」をどう評価するかはまさに人それぞれでしょう。私は別によいと思います)。

以上のような理由から私は擬似ドキュメンタリという形式はおおむね成功しているし、それ以外のことも隅々までよく計算されていると思う。個々のボケも私の好み。だが、この程度の作品では「映画」を壊すことなんてとてもできない。びくともしない。

(評価:★3)

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