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[コメント] 大日本人(2007/日)

バベル』なんかより切実な相互理解の断絶。意味の漂白化後に残る微かな哀愁。情けなくもいとおしいマイノリティー。なかなか理解されない大日本人松本のプロトタイプ。
hk

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







−映画結構ヒットしましたね。

「んー。そうみたいだねー。別に僕はヒットとかどうでもいいんだけどねー。でも、そりゃー、お客さん全然入らないよりは入ってくれたほうがうれしいけどねー。」

−でも、結構賛否両論みたいですよ。期待外れだって人もいるみたいですし。

「えっ、何? あぁ期待外れ...。まぁ、期待外れといっても、どう外れたのかが問題だよねー。って、そもそも期待って何を期待していたのかも僕にはわからないし。んー。別に僕は誰かの期待に応える為に撮ったわけではないからねー。んー。」

−平たく言うと、思ったよりつまらなかったって人が多いみたいですよ。

「つまらなかったって、君ー、えっ、本当に?ー。そりゃー、ちょっと、僕のほうでは考えてもみなかったけど...んー。2時間見続けられるようには面白く撮ったつもりだったんだけどー。」

−えっ?「面白い映画になってる」って笑えるって意味じゃなくて、最後まで見られるって意味だったんですか?

「そうだよ、君、何を言ってるんだ。当然じゃないか。映画は長いから最後まで見られるようにするのが最低限の仕事だから、その責任を果たしましたよってことだよ。だいたい、なんなんだよ、笑えるって。何で僕が見ず知らずの他人を笑わせなきゃいけないんだ。僕にすれば、そう思ってる人がいるって方が笑わせるよ。」

−でも監督はお笑い芸人なんだから、笑わせるのが当然だろ?

「だから、そのお笑い芸人とか言うの、止めてくれないか。何だよ、お笑い芸人って。ぼ、ぼくが、私はお笑い芸人です、なんて言ったこと、一度だってあるっていうのか。...いや、あるかもしれないけど。でも、仮に、仮にだよ、僕がお笑い芸人だからって、何で人を笑わせなきゃならないんだ。」

−......。そろそろ帰るわ。じゃぁな。

「ああ、帰ればいいさ。す、すぐにでも帰ればいいさ。あぁ、腹立つわ。なんなんだよ、つまらないとか笑わせなきゃいけないとか。人を馬鹿にしてるのか。僕は映画を撮ったんだよ。そうだよ、「お笑い映画」をとったんだよ。お笑い映画を撮ったからって、別にみんなを笑わせることまで保証したつもりはないんだよ。そうだろ、お笑いの型を形にするのが仕事なんだよ。それがわかって笑わないっていうんだったら、見る方のセンスが悪いんだよ。そうだよ、僕はセンスがいいんだよ。僕は絶対面白いんだよ。だ、大日本人なんだよ。」

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ひとり獣としてのルールを逸脱した行動(無駄に強い)をとる「赤い」敵はテポドンのことであり、後になって助けに来て勝手にストーリーを独占し押し付けがましい体裁協力を求めるヒーロー戦隊はアメリカ軍のことであり、空飛ぶ赤ちゃん攻撃は役に立たない迎撃ミサイルであり、最後に繰り出される(大日本人がいてもいなくても関係ない)ビームは核爆弾であり、自由の女神のように鉄棒(?)を握り締め自由と正義の為に戦おうとアメリカの真似事をしても真似事ゆえに何が自由で何が正義かもよくわからないのでやる気も根性もないヒーローは日本人のことであり、朝日(天皇)に敬礼し孫に蹴り殺されてしまう(介護放棄)ボケの入った4代目は戦前世代であり...

との政治的メッセージを読み込むことが十二分に可能な後半部分からこの映画は政治的映画だと評価することも可能なわけだが、それ以上に重要なのはそれまでのシークエンスであって、そこにおいて松本は彼の笑いの原型ともいうべき「哀愁笑い」を綿密に構築する。

紳士的に理路整然に会話しているつもりでもどこかピントがズレている為に馬鹿にされる大日本人。話の流れはインタビュアーの思いつき(あるいは対象への興味のなさ)により常に脱臼させられ一向にまとまった会話空間(相互理解の空間)を形成しようとはしない。お金と面白い話にしか興味がなくなった高度資本主義社会の象徴のような日本人たちの中で、彼らを守る為に身を粉にして働くも、ただ面白くないとの理由で疎まれ、しまいには安っぽい「教育的立場」「人道主義的立場」を自称する人々から非難を受けだす始末。彼が戦う獣たちも自分勝手な行動ばかりとり一向に戦闘空間(相互衝突の空間)すら形成できない。虐待ゆえの確執を抱くべき対象である父は既に死亡しており、理解ある祖父は既にボケており、「デリカシー」のないマネージャーには当然理解されず、愛する娘は自分のことを嫌ってさえくれない(「わかんなぁーい」=他人)。密かに可愛がっていた猫にまで牙を剥かれた大日本人は、最後に自らを日本人の政治的カリカチュアとすることによって自分自身をも疎外する。

絶望的な疎外の中で、しかし、それでも社会との関わりを完全には断絶しようとはしない大日本人はつまるところ「愛=理解」を求めているように思える。居酒屋でインタビュアーとの会話が珍しく盛り上がった(=理解しあえた)と「錯覚」し、ほろ酔い気分で一人家路に帰るシーンの哀しさといったらない。監督がテレビ番組においてマイノリティー(変なおじさん、いじめられっ子等々)を面白おかしく扱うのも、それは彼らをただ馬鹿にしているのではなく、逆にその馬鹿ばかしさを彼ら固有の個性として高く評価しているからであり、理解されない者たちへの「愛=理解」の裏返しであることをどこまで私たちは自覚できているのだろうか。「疎外→哀愁→笑い」という松本の笑いの原型(哀愁笑い)は、もはや笑うことしかできないほど哀しい者たちへの愛で支えられているのだ。

このような政治的・哀愁的喜劇映画はどこかチャップリンの作品群に似ているようにも思われる。しかし、彼はチャップリンのように政治的なことや人間観察にそこまで真剣なわけでも興味があるわけでもないだろう。むしろ彼は、彼にしかできない笑いの原型を表現する為に、より形式面に力点を置いた作品を作っていくことになるだろう。そうなれば、表面的な見方をしていては彼の作品とますますすれ違うことになること請け合いである。

(評価:★5)

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