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[コメント] 突然炎のごとく(1962/仏)

一人の女優が、スクリーンの中で「伝説」となる瞬間。
くたー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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一つ一つの映像表現が生み出す豊かなリズム。あたかも軽快なステップを踏みながら先へ先へと急ぐ、まさに「つむじ風」のようなフィルム。そしてその映像の語り口が持つ「ケレン味」のおかげで物語との間に一定の距離感が生まれ、本来物語が持つある種の生臭さを消し去る役割を果たしているように思える。「映像表現」が「物語」をそっくり包んで、「おとぎ話」という箱の中に閉じ込めた感じとでも言えば良いのか。そのような理由からか、饒舌なナレーションもこの映画の中では、確実に「味方」となっている。

カトリーヌという女性の奔放で時に不可解にさえ思える言動。それも含めて個人的にこの物語はこう解釈することにしている。「彼女の魂は信じない」と言って女神と同じ微笑を持つ女の「器」をひたすら賛美する男ジュール、そして女神という器の中の触れてはいけない魂に触れ、しかも自らへと引き寄せようとした男ジム。おそらくカトリーヌが本当に愛してしまったのは、その魂に触れた男の方だと思うのだが、自らの器を割ってまで魂を開放することなど女神の器を持ってしまった彼女には許されないワケで。結局彼女のとった道は、男を魂ごと連れ去ること。そして女神として賛美していたジュールには、あたかもこの伝説のような物語を語り継ぐ役を託すかのように、「しっかり見ていて」という言葉を残して。

新しい愛のカタチ云々なんてこと以前に、コレはまるで「神話」の世界の物語。元々は作者ロシェが若き日の恐ろしい思い出を書き綴ったものらしいが、トリュフォーはその小説中の一人の女性をひたすら賛美することで、一つの神話として置き換えてしまったのではないだろうか。

元来トリュフォーの映画の中に登場する女性は、大抵が様々なカタチで「強さ」を兼ね備えている。そして男たちはといえば、決して彼女たちと渡り合うように同じ高さに視線を持っていくことはなく、どちらかといえば意識はやや「上目使い」に傾きがちな気がする。その「上目使い」を少年っぽさ(例えば『あこがれ』の中の少年たちと同質の視線)と取るか、謙虚さと取るか、はたまた卑屈さと取るかは人それぞれだとは思うが(笑)。考えてみれば「女子供のために映画を撮る」なんて公言しながらも、別に女性の心理のヒダに深く分け入っていくワケでもない。ましてや本当の意味で男が女を屈服させるなんてこともまずない。「女性のための映画」というよりは、「(強く美しいものとして)女性を賛美する映画」がトリュフォー映画の信条なのだろうか。

そしてもちろん、この映画はジャンヌ・モローという女優への賛歌でもある。一人の女優の一挙一投足とそれを見つめるカメラが、互いの共同作業でスクリーン上に素晴らしく魅力的な姿を焼き付けていく。自転車をこぎながらスカートを翻してみたり、男装で橋を疾走したり、カメラの前でこぼれるような笑みを見せたり、前触れもなしに河に飛び込んでみたり、膝を組みながら歌ってみたり、・・・・。特に強い思い入れもなかったはずの一人の女優が、スクリーンの向こう側で褪せることのない伝説となるのを目の当たりにする瞬間。少なくとも個人的には、そんな至福を味わうための映画でもある。[4.5点]

(2002/8/15 再見)

(評価:★4)

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