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[コメント] イグジステンズ(1999/英=カナダ)

銃やゲームポッドのデザインは、この監督しか考えつかないような奇抜さ&気色悪さ(&可笑しさ)。だが、そこに込められた暗喩を見れば、同年作の『マトリックス』より哲学的だ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







初っ端から、弾丸の代わりに歯を撃ち込む拳銃が登場、しかもそれ自体が骨で出来ているのだ。これが「金属探知機に反応しない」という理由で採用されているのがミソ。つまり、機械が有機体と識別されなくなり、知らぬ内に侵入してくるという事。これを見た瞬間に「おぉ、これぞクローネンバーグ節」と。内部と外部の相互浸透、自己と他者とがグチャグチャに混ざり合う事のエログロ的粘液粘膜的表現。まさにこの監督のテイストだ。

突然変異の生物がゾロゾロと現れる中、犬だけが普通な事に違和感を覚えたのだが、この映画の結末を見て納得、あの奇妙な生物がいた世界は擬似現実だったのだ。突然変異の両生類を改造して作ったという疑似体験装置も、映画の最後では金属製の機械になっている(‘両生類’というのがまた、現実と妄想の両生類という暗喩にもなっているのは容易に見てとれる所)。そしてあの犬は、テッドとアレグラの飼い犬だったのだ。ゲームの中でこの犬が、骨拳銃を喰ってしまっていたのは、獏が夢を喰うようなものだったのだろうか。

後から考えれば、アレグラがガソリンスタンドで双頭のトカゲを見つけた時に平然と受け入れていた事も現実離れした話ではあったのだが、映画という擬似現実を観る僕らは、そんな奇怪な設定を容易く受け入れてしまうように、洗脳されているのだ。この映画の、数あるヴァーチャル・リアリティ物の中で特色を示していると思われる点は、この‘設定を受け入れる’という、どんな不自然も自然なものにしてしまう魔法の不気味さを描いていた事だろう。ゲーム内のプレイヤーは、ゲームの設定に沿った言動を無意識に取らされてしまう。それを拒絶すれば、何も前に進まない。身体に侵入する機械、という物理的な侵略を描きつつ、人格のコントロールという、心理的な、より深い侵略の描写へと進んでいく手際が見事。これによって、登場人物の全ての言動が疑わしく見えてくる。

また、テッドに違法に脊髄コネクタを取り付ける人間が、ガソリンスタンドを隠れ蓑にしているというのも面白い所。ガソリンスタンドとは、自動車の車体の奥にノズルを挿し込んで、ガソリンを注入する場所だ。この男は、その仕事を表でしながら、裏では人間の体の奥にコネクタを挿し込んで、妄想を注入する下準備を施している訳だ(余談だが、クローネンバーグが『クラッシュ』で、車と人間がグチャグチャに混ざり合う世界を描いていた事も連想される)。

ゲームポッドをコネクタに繋ぐコードは、臍の緒に似ている。これを使って脊髄という、体の根幹と、エイリアンの幼生のようなゲームポッドとを接続するというのは、何か、人間が現在のような形態の生物として在る事自体が、単なる偶然の産物でしかないといった不安定感を覚えさせられる。

テッドが「体の奥まで穴を空けて、感染しないのか?」と警戒するのに対し、アレグラは口を大きく開いて、無言で‘そんな心配はご無用’とアピールするが、人間、風邪の季節には、外から帰ればうがいをするものだ。この映画が、『マトリックス』等の同系統の作品と比べて優れている点の一つは、テッドの恐れに表される、‘装置を体に接続する’事の不気味さ、生理的な拒否感を描いた所だろう。かの『攻殻機動隊』では、皆、接続しているのが当たり前のような‘設定’でしたからね。将来、こうした技術が開発されたら、本当に「ピアスの穴を空けるようなもの」だという意識で肉体に装置を受け入れてしまうのか、という事は、『攻殻』なんかを観ていて、僕も考えさせられた点だった。

ゲームポッドの突起を指で弾いて操作したり、体に空けたコネクタを唾液で湿らせて、コードを挿入するといった場面は、このゲームポッドが或る意味、性的な玩具でもある事を匂わせている。だから、排他的な性的結合体とも言うべき‘恋人同士’であるテッドとアレグラが、擬似現実装置を罪悪だとして排除しようとするのは、人間の精神の免疫作用とも言えるだろう。

現実と思われたゲーム内世界では、コネクタを取り付けたり、ゲームポッドを修理したりする人間、つまり、擬似現実へと他者を導く立場の人間、現実と妄想を繋ぐ基盤を与える人間が、テッドとアレグラを欺く。つまり結局は、他者への絶対の信頼を前提としなければ、全てが知らぬ間に操作されてしまうのだ。あのガソリンスタンドの男は言っていた、「整備士(メカニック)の俺が神なんだぜ」と。

このゲーム内世界に於いては他にも、ライバル会社同士のスパイ合戦によって、誰を信用すべきか混乱させられ、最終的にはテッドとアレグラが殺し合う事になる。この、人間同士の信頼を破壊するというゲームの作用こそが、その‘罪’なのだろう。

だが、テッドとアレグラはゲームに影響を受けてこの開発者を殺した訳ではない筈。最初から飼い犬の体に、銃を忍ばせていたのだから。この犬という動物は、人間を信頼し、よく言う事を聞く動物だ。互いに信頼し合う男女の飼い犬から銃を出し、敵を撃つ。しかもそれは、それ自体が有機体と区別し得ない機械である、あの骨の銃ではない。この場面にこそ、最終的な‘リアリズム’が示されていた――のだろうか?

ここで注目したいのが、ラストシーンで、自らもゲームに参加していた開発者が口にする、「ゲームを敵視する要素があった。誰か敵対心を抱く人間が参加していたんだ」という不安。これはつまり、それまで観客が「ゲーム開発者」だと思い込まされていたアレグラに対して覚えていた違和感は、テッドとアレグラの思想が影響して現れたのだという事だ(この影響がどんな所にどの程度及んでいたかは曖昧だが)。そうすると、この二人に「現実を歪めた」という罪で殺されるゲーム開発者は、テッドとアレグラの妄想によって殺されたとも言えるのだ。観客が、この二人は先見の明によって、将来の危険要素となり得る人物を排除したのだと納得しているとすれば、それはこの二人の思想に洗脳されているのではないか。映画という疑似体験によって・・・・・・。

ゲームの真の名称が、「existence(生物・存在・実在・生活)」にノイズが入ったような“eXistenZ”ではなく、それに優先するかのような「transcendent(超越的・先験的)」をもじった“transCendenZ(トランスセンデンズ)”である事の恐ろしさ。そこにはまた、テッドとアレグラが、五感に与えられる経験は現実同様である世界の中で、‘ゲームだから’と平然と人を殺させる疑似体験装置を開発した事の罪を償わせる為に、‘平然と’開発者を殺す、という逆説も滲んでいる。

ゲームを終えた後の参加者たちの感想が、まるで映画出演の感想のように聞こえるのが可笑しい、と同時に、この映画の自己言及性を感じさせ、背筋が寒くもなる。エイリアンが脊髄を這い上がるような、寒気。映画という疑似体験装置の先に、あの金属製のヘッドギアがあり、この装置の更に先に、生物体として人間と一体になる、あのエイリアン風ゲームポッドが待ち構えているのではないか、という恐怖。映画を最初に見た人々は、そこに映し出された汽車に轢かれると思って逃げ出したというが、今の僕らは、映画で人が血塗れになって体を吹っ飛ばされているのを見ても、この映画のラストのように銃口を向けられても、平然としている。

「existence」は「外に/立つ(スタンス)」という意味があるというのは、実存主義の解説なんかにも書いてある話。アレグラも、脊髄コネクタを空ける事を恐れるテッドに「カゴに閉じこもっていては駄目」と言う。だがこの映画は、‘参加’したり‘開放’されたりする事は、限度を超えると却って自らを見失う事を示している。テッドとアレグラの意志が、最終的にやはり何かの影響によって誘導されていなかったのかどうか、その辺りも曖昧に思えてくる。この現実世界でも、誰もが自分の‘役割’を演じているとも言えるのだから。

中国人は「四足のものは、椅子と机以外は何でも食べる」と言われているが、最後にテッドとアレグラが中国人(?)に銃を向けたのは、犬を飼っているから・・・・・・という訳でもないか。ただ、‘食べる’という行為もまた、体に異物を取り込むという行為。突然変異の生き物を食べるという事も、疑似体験装置を取り込むという事も、快楽原則に基づいた行為であり、いつしか慣れてしまうもの。だが、最後まで取り込み得ない骨、という残り物で、敵に対抗する武器を作り、更にそれを、正常な生き物である犬が喰らうというのは、巧い暗喩だな。監督がどこまで自覚してやっているのか分からないけど。

それにしても、ゲーム内の人間の‘待機状態’というのは面白く、あれは実際に真似してみたい。相手がこちらの望む言動をしない限り、頭をグラグラさせながら無視する、という…(笑)。この現象を起こす事で‘ゲームの参加者’ではない擬似人格だと判明する設定は、もっと巧く生かせたような気もするけどなぁ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)ねこすけ 赤い戦車[*] DSCH 3819695[*]

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