[コメント] プライベート・ライアン(1998/米)
撃つことよりも、より多く撃たれることで崩れゆく肉体を執拗に見せつけ「痛み」を描き、遠近感を巧みに強調した炸裂音で、方向感覚を麻痺させ有無を言わさぬ被弾の「恐怖」を聴かせる。我々の素直な目と耳は、この凄まじい映画体験で戦闘を実感したと錯覚する。
そして、後半の行軍では淡々と精神の「傷み」が語られることになる。過剰にも思えるスピルバーグの執念を感じる。
あるいは、ノルマンディの戦闘は国家による名前の剥奪という「無名性」の強要であり、ライアン探しは個の「人格」の価値に優劣はないはずだという戦争がはらむ永遠の矛盾についての話である。
「痛み」と「恐怖」と「傷み」の体感が戦争ならば、国家の象徴である国旗と、個人の証である戦死者の認識票の束や、墓地に整然と並ぶ純白の十字架のせめぎ合いも戦争なのだ。
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