[コメント] プライベート・ライアン(1998/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
高校の頃は、特に映画に興味もなかったのだけど、これだけは、映画館に3回ぐらい行った記憶がある。
まず、兵器が凄い、ということでしょうか。別に詳しくもないのだけど、タイガー戦車などを筆頭に、マイナーな兵器まで、各軍それぞれに忠実に(厳密には違うのかもしれないけど)出てきていて、戦争映画にありがちな、二次大戦のドイツ軍が、アメリカ軍の戦車使っているよ、ということで萎えることがなくて、楽しめた、ということ。
また、それがこの映画が「リアル」だ、ということともつながりがあるとも思います。戦争映画を見ていてよく思うのは、戦場という非日常においては、もしかしたら、この僕でも、僕じゃない僕になって、ひょっとしたら活躍できたりするのじゃないか??というドキドキ(日常冴えないほど、そういう理想は高まるような気もする)というような、私じゃない私になれるかもしれない、という空想というか、それ以上に現実に近いものを感じ取れることが多いのです。
しかし、この映画は、最後の最後まで、それができませんでした。確かに、私じゃない私になれるかもしれない、という予感はあったのですが、それは見事に裏切られます。むしろ、この私から別の私に変わることなく、私のままで、戦場という非日常に投げ込まれ、それはいつまでも変わらない、という恐怖を味わうことになります。そもそもこの私が私のまま戦場に行き、そこで私じゃない私になれる、というようなことはなかなかないのでしょう。或いは、私が別の私になった時点で、この私の連続性、というものがよくわからなくなる。柔軟な私から私への移行、なんてそうそうないのでしょう。(これは他の方もおっしゃっていたことだと思います。)トムハンクスの手の震えは、私から私へと変化させようとする、暴力的なものへの、抵抗なのかもしれない。
そして、この徹底的な「リアル」(体はバラバラになるし、弾は避けてくれない)によって、見ている人は圧倒的な恐怖を感じる。戦っている兵士たちは、一応訓練や、経験によって、私じゃない私になる(それが実際そうであるかどうかは別に)という経過は経ているように思えます。しかし、それすらもない、いきなり戦場へとほっぽり出された、見ている人は、どうしようもなくなるでしょう。
そこに登場するのが、「物語」なのでしょう。その「物語」によって、どうしようもなくなったものどうにかできるものとしてなんとか受け入れることができるようにするのです。トムハンクスが最後死ぬ時に「(命を)ムダにするな、一生懸命生きろ」という言葉を残して死んでいった姿にぼくも感動しました。と同時に、ちょっとまて、これで感動できる人、というのは限られているだろう、という疑問もわきました。自分はこれで感動してよいのか?
ただ、それが「物語」である以上、物語を作る人の視点がどうしてもはいらざるをなくなるのはしょうがないでしょう。それはドイツ軍や日本軍の物語、或いはそれらを超えた物語を作ろうとしても、そうならざるをない側面はあると思います。ある「リアル」をある物語で回収する時点で、ある別の<リアル>は「ノイズ」として隠蔽される、無視される。その無視されたノイズを回収する物語を作ろうとすれば、また別のノイズが無視されることになるのではないか?
この映画は、まさに、その圧倒的な恐怖、を物語が回収し(それはある面で避けられないことなのかもしれない)なければ、やっていけない、でも、物語によって受け入れ可能になることで、その他のノイズは、また隠蔽される、無視される、というジレンマのようなものを感じます。でも「物語」とはどうしても、ある種の視点が入り込むことであり、それは避けられないと思います。
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