[コメント] ジョーカー(2019/米)
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私は本作の不幸にドラマ性が殆ど感じられない。ホアキン・フェニックスの巧みな造形は三谷昇や蟹江敬三を想起させるのだが、彼等の秀作、『どですかでん』や『軍旗はためく下に』、『赤い教室』や『十九歳の地図』と比べれば、いかにも弱い作品だろう。本作の不幸は市役所で生活保護の担当になれば毎日出会うような類のもので、虚言症の母親などありがちだ。
で、それ以上の何があるかと云えば何もない。何も面白い芸ができないのに道化を志した不幸、という設定は面白いのだが設定に留まり、チャップリンが召喚(『モダン・タイムズ』)されるのは大袈裟だ。結局、ジョーカーの最大の不幸は予算不足で打ち切られた当局の面談のように見える。勿論これを告発する内容でもなく、この辺はネタでしかない。
この映画がなんでこんなにウケたのかは社会学的な興味に属するのだが、侏儒の俳優起用などは『フリークス』も和久井勉も知らない若い映画ファンには衝撃だろう、という気はする。ジョーカーのような「困った人」との接し方を学ぶ機会の提供としては、こんな映画もアリなのかも知れない、とは思ったことだった。
本作は香港デモにとって迷惑な映画である。2019年、香港デモは当局が覆面禁止法を発令し、市民はこれを逆手に取り仮面を被ってデモを続けている。本作の道化のお面をつけた暴動は、香港デモを容易に想起させるものがある。そして本作の視点からは、香港デモも暴動のように印象づけられるだろう。香港や中国に対する民主化要求は、貧乏人が襲ってくるぞという保守層のヒステリーにすり替えられる訳だ。
この解釈、偶然の一致は、本作にとって不幸だろう。おそらく本作は、ハリウッド・リベラルがトランプ的な「忘れられた白人層」の反逆を恐怖して描いたものだろう(ラス前にクリームの「ホワイト」・ルームが流れるのもその意図と見える)。しかし、ジョーカーの「覚醒」とこの暴徒たちを薄ぼんやりと並べて、似ているでしょ、で終わりでは意味不明だ。闇雲に暴動を煽っていると取られても仕方がなかろう。ミイラ取りがミイラになっているように見えるし、その点の自己批評が何も見えないのは危ういと思う。
本作の設定は1981年。電車内の凶行は明らかに『ある戦慄』(67)の変奏として描かれているが、ニューヨークの地下鉄のリニューアル等が図られたのは80年代以降とのことらしく、時代描写は整合が取れているのだった。
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