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[コメント] 流れる(1956/日)

ナルセ映画のひとつの極北だが、代表作だとは思わない。渋すぎる。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







本作で特徴的なのは、ナルセ映画には珍しく、キャメラがほとんど空を写さないことだ。タイトルの隅田川でもキャメラはどんどん橋の下に潜ってしまうし、町屋の路地は多く写されるが、画面のトップは建て込んだ二階屋根やビルや電車の高架や寺の屋根瓦に覆われて隠され続ける。

観客に空を意識させるのは、凸ちゃんが佇む窓の外で稲妻が光る件と、彼女が仲谷昇と河岸を歩く件だけだ。いずれも彼女が置屋生活の先行きを案じる心境と接続されている(前者は明らかに『稲妻』が引用されている。凸ちゃんは俯いていて稲妻に視線を向けない。『稲妻』では救済だった稲妻を、本作では見逃したのだ)。その他のキャメラはもう終始一貫屋根の下にあり、スタンダート・サイズに整然と収まり続け、その連続は閉鎖的で観る者に圧迫感を与える。

アクションもまた少な目なのであり、田中絹代が垣根越しにラーメンを受け取る件と、酔った杉村春子岡田茉利子のダンス、あとはポン子なる猫が突然に恐喝中の宮口精二に襲いかかる件ぐらいで、いずれもユーモラスで厳選されている(あと、有名な杉村の電話口でのチンスルチンスルもある)が、あとはもう、目線の交換で全てが進められる。

そこで繰り広げられる物語はあらかじめ定められた泥船の沈没劇。芸達者たちの豪華共演は最初から最後まで、ダアダアな世界の絶妙に役割分担された競い合いであり、場違いに真面目な田中絹代がこれを際立たせる。数ある置屋ものでもここまで死臭漂うのは珍しかろう。

ダアダアな世界を加速させる(沈滞させるというべきか)栗島すみ子は見事なもので、キャリア絶頂期の現役名優たちと五分に渡り合い、『淑女は何を忘れたか』の翌日に撮影されたかのようにブランクを感じさせない。代議士から十万円引き出し、宮口を揶揄い半分にたしなめ、山田五十鈴を騙し(「川向うでも商売はできますからね」)、田中絹代を引き抜こうとする政治力は次第次第に残酷の姿を現す。置屋の面々は彼女の掌に握りつぶされる。

寄留者の田中絹代だけが先に知ってしまった泥船沈没という収束は残酷。これが西部劇ならさすらいの田中は宿屋を立て直す役処なんだろうが、その真逆のアイロニー喜劇として収束を向かえる。ラストに山田と杉村が三味線で唄うのは清元「神田祭」。吉原の全盛と二年に一度の神田祭の景気を悦ぶ唄。なんと見事にヤルセナキオの物語を閉じることか。調べたついでに歌詞引用。

ひととせを、今日ぞ祭りの当たり年/警護、手古舞い、華やかに/飾る桟敷の毛氈も/色に出にけり酒機嫌/神田囃子も勢い(きおい)よく/きて見よかし、花の江戸

で、これが云いたいのだが、この置屋の沈没は哀しむべきものだ、という感慨はこの映画からはまるで漂ってこないのだ。ただただ厳密に没落が記録される。息苦しいほど渋い。しかし、渋すぎるのではないのかという気もするのであり、本作は一貫した方法で撮りあげられたナルセ映画のひとつの極北ではあるが、代表作に数えようとは思わない。出てくる感想は、俳優さんお上手ねえ、しかないのである(その点で成功しているのは、本作の名演が女優に絞られているためだろう。男女名優入り混じる『娘・妻・母』の散漫との比較は容易)。

(ただ、この厳選された芸達者たちによるオールスター映画は、没落の予感に苛まれたナルセによる邦画絶頂期の記念碑であり、没落する置屋は邦画の隠喩ではないか、と考えれば感じる処があるのだが、考え過ぎかも知れない)

田中絹代の造形は傍観者に限定され、徹底されたとは云い難いが、噂話の連鎖、釣り銭の間違いや饅頭の奢りの断片は何気に効いている。凸ちゃんファンとしては、不正経理で開き直る役処(原作にはない)は遣る瀬無い。杉村に男嫌いと指摘されて曲げる口元の醜さが忘れ難い(つねに口元を曲げ続ける栗島すみ子の症状が伝染されている)。潜在的な男嫌いはその後の彼女の典型的な役処になるだろう。賀原夏子の嫌がらせも見事な安定度。杉村が拝むやけに大きな蛙の石像は旧習なのだろうが異様な感じが残る。何で杉村は梅干しを縁起が悪いと云うのだろう。

(評価:★4)

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