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[コメント] ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q(2012/日)

良いところもあるし悪いところもあるが、シリーズの1エピソードとしても単話としても好き。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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作っては壊し作っては壊し、(とりあえず)納得のいくまで作品に手を入れ続けるもので、私的な制作で許される範疇を超えて、多くの他人と他人の財産を投入しながら作品を作り続けることのできる環境が素直に羨ましい。もうファンやそうでもない観客が何をどう言ったところで(つまるところ数多の批判はすべて「俺の見たかったものはこれじゃない」=「一度リリースされた作品は作者だけのものではない」に集約されると思うが)、エヴァは結局庵野のものなのだなあ、ということが、反感でも共感でもなく、まずは羨ましい。

「契約上の制約」や「受注仕事と職人の技の提供」が面白い制作物を生み出すことは事実だけど、それは上手くできたところで「さすが!」という賛辞に落ち着くが、「さすが!」という感想は想定内だったということで、「Q」にはもうその想定を超えてきたワクワク感が漲っている。冒頭の大気圏外での初号機奪回作戦や、クライマックスのレイ・シンジ・カヲルvsアスカ・マリのエヴァ対エヴァの決戦は、鑑賞後数週間たっても印象深い。

エヴァを何度も作り直すのは、物語を人類補完計画(で描こうとしているテーマ)にうまく着地させられないからだろう。ゲンドウがリリス(妻ユイ)と融合し、人類(の物語上の代表シンジ)が羊水の中の胎児に戻る(LCLに融合する)。「お前は生きたいのか?死にたい(生まれたくなかった)のか? そんなに生きていることが苦痛なら元に戻してやるよ」という父親からの果し状。それは庵野監督の私的な葛藤が発想の発端にあるのだと思うが、庵野監督とシンジ、シンジと観客がどうやってもシンクロしていかないからだろう。エヴァに「乗る、乗らない」を、自分のために「生きる、生きない」という問題意識に上手くシンクロさせたいけど、ほとんどの観客の関心はエヴァのいるフィクショナルな世界自体の行く末にあって、つまり自我と他人の境界とかの葛藤ではなく、具体的にレイやアスカやシンジやミサトやネルフやヴィレやゼーレやエヴァがどうなっていくか知りたいだけなのだ。TV、旧劇場版と何度もランディングに失敗しているだけに、新劇場版の次回作はもうハラハラドキドキがたまらない。監督が次回作でも結局放り投げることになってしまっても、むしろきちんとフィクショナルな世界が完結するよりも面白いかも知れないと思っている。

そういうことで破たんするのはいいのだが、一方でそうでない凡事で破たんするのはいただけない。そのいい例がカヲル君の「ロンギヌスの槍が2本だ、1本はカシウスの槍じゃない!」と、あの場面で急にパニクるところで、まあ次回作で収束するのかも知れないけど、あれは推理小説でいうところの犯人の突然の登場にあたる作劇上のミスだと思う。誰だって「知らねえよ、そんなもの」になるのだから。この説明不足には必然性がない。だから観客は急にホラ話であることに気づき興ざめするのだ。もう一つのカヲル君の「第1使徒から第13使徒に格下げとはね」というのは、謎の提示、伏線として作劇上はセーフだと思う。

制作物は結局制作者の私小説なので、エヴァが作者の葛藤のまま未完で終わるのはともかく、他人に見せるという制作物を作るうえで、作者が客観的な視点の取り方に注意を払わなければいけないのは基本なので、そこは頑張って欲しいと思う。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)けにろん[*] disjunctive[*] ペンクロフ[*] DSCH ロープブレーク[*]

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