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[コメント] 仁義なき戦い(1973/日)

広能とケンシロウ
kiona

 あらためて見るに、実録ものとしてのノルマを十分に果たしつつ、一方で観客をめっぽう楽しませる映画だ。その娯楽的側面の構造を、ちょっと『北斗の拳』を引き合いに出して考えてみたい。

 たとえば、ケンシロウと広能の立ち位置だ。ケンシロウというキャラクターを一言で言い表すなら「超人的にストイック」ということになるが、広能もまさにそれ、欲望と野心渦巻く極道社会の中で独り頑なに己を抑え、仁義のみを貫き通す。ある意味、どちらも最も人間くさくないキャラクターだ。明日、自分の身がどうなるか解らない世界、いわゆる「世紀末」にストイックでいることほど人間くさくないことはない。ジャギや山守の方がよっぽど人間くさい。そんな最もΦ(空集合)なキャラクターが主人公として人物相関図の中心にいるわけだが…

 ちなみに、『北斗の拳』の最大の魅力は、なんといっても千差万別の悪役たちだった。醜い下衆野郎から美しく高尚な独裁者に至るまでとにかく個性的だったが、一方で誰もがケンシロウとは対極的だった、野心を抱くというたった一つの共通点故に。野心とは栄えたいという願いであり、滅びたくないという祈りであり、裏を返せば弱さだ。最たる人間らしさだ。そして、それが露呈し、ケンシロウのストイックさと対比されるとき、悪役たちはいよいよ魅力的に見えた。まったく同じことが『仁義なき戦い』でも言える。よくよく見れば、要所の構図がどれも『北斗の拳』よろしく一対一の対決となっているのだが、広能だけがいくら格好良くても駄目、そのストイックさはむしろつまらなく映ったことだろう。山守や坂井が人間らしさ、弱さを見せることで初めて広能のストイックさが活きてくるのだし、中心との対比により周辺もいっそう輝く。或いは、中心が変わらずとも、周辺だけが変わっていくことで、全体の色合いはいくらでも変化していく。延々と殺し合いが繰り返されるだけの単調な物語が無類の面白さを獲得している作品の不文律ではなかろうか。

 ところで、ケンシロウは強かった。強かったのは、野心がなかったからだ。野心がなかったのは、何も求めていなかったからだ。彼が求めていたものはただ一つ、愛する人間が生きていた時代。しかし、それは喪われ、二度とは戻らない。だから、戦前へのレクイエムを奏でるように戦い続ける。広能もまたそうではなかったか。広能だけが死んだ人間の名を口にし、争いが鎮まることを望む。にもかかわらず、一度ことが起きれば躊躇いもなく弾丸に向かっていく。その前進は、一見活力に満ち溢れているようで、実は虚無の動機に支配された亡霊のそれなのだ。あの濡れ場が異彩を放っていたのも、入れ墨が鮮烈だったからばかりではない。生者の動機を持たない亡霊がこの世への未練を問われて出した解答が、あまりにも儚かったからだ。

(評価:★5)

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