[コメント] トウキョウソナタ(2008/日=オランダ=香港)
まずは、持ち前の不穏さを半透明のオブラートに包み込み、ことあるごとにちらつかせつつ、静かに揺さぶり続ける黒沢演出の繊細さに魅了された。線路ぎわの家から街へと彷徨う父や次男の不規則かつ自然な「導線」が、どうしてこんなに面白いのだろうと関心する。
それは、黒須(津田寛治)や母(小泉今日子)と闖入者(役所広司)の身体的な身のこなしや、物理的な移動にともなう導線にも感じる。きっと、黒沢による計算されざる計算が生む映画としての面白さなのだろう。そんな、純粋な映画的興奮に満たされているにもかかわらず、家族のとらえ方に不満が残る。おそらくは確信的なのだろうが、竜平(香川照之)の父親としての言動は幼稚に見えるほど旧態であり、妻としての恵(小泉今日子)はあざといまでに意思が欠落している。
これは、あの失われた10年と呼ばれた90年代当時に、反省と自嘲を込められてもてはやされた類型的な日本の家族モデルだ。今年(08年)、公開された家族映画群は、すでにこの類型的家族の彷徨という命題を脱出し始めているように感じる。例えば、門井肇の『休暇』は主人公の従事する特殊な職業や、橋口亮輔の『ぐるりのこと。』は90年代の社会事象といった現実と向き合うことで再生と「今」の確認を模索していた。一方、小林聖太郎の『かぞくのひけつ』は大阪という地域性に根ざした喜劇の再興や、『歩いても 歩いても』では是枝裕和が松竹大船的とも言える家族関の普遍性を再確認するという復古行為によって同じく家族の再生と「今」の確認を試みていた。
四人とも黒沢清よりも若い世代の作家たちだ。純粋な映画的興奮もさることながら、作品に反映された時代性にも大いに興味のある私にとって、残念ながら「トウキョウソナタ」は遅れてきた傑作であった。10年前に、いや5年前に公開されていたなら間違いなく手放しで絶賛していたと思う。
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