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[コメント] プレイタイム(1967/仏)

ムッシュ・ユロをさがせ!

一昔前、「ウォーリーをさがせ!」という絵本があった。それに事寄せて言ってみるなら、この映画はさしずめ「ムッシュ・ユロをさがせ!」である。「ウォーリーをさがせ!」は大俯瞰図の中のどこかにいる風景の一こまとしてのウォーリーをさがすのが目的なのだが、この映画のムッシュ・ユロもまさしくそんな風景の中の一こまとして映画の中に存在することになる。それはもはや喜劇とも、もっと言えば物語とも言い難く、では何を描き出そうとする映画なのかと言えば、それは世界そのものを描き出そうとした映画なのかもしれない。絵本の大俯瞰図が世界の断面を隈なく描写しようとするように、この映画はやはり世界の断面を隈なく描写しようとする。即ち、人、物、そしてそれらの行き交う様を。

だが、これは大俯瞰図の絵本ではなく、映画である。映画はあらゆるものを同時に映し出すことは出来ず、具体的な視点をもったキャメラを媒介として、とある具体的なカット、つまりは断面の積み重ねとしてしか世界を描き出せない。要するに、そこには世界そのものは映らない。この映画は、敢えてその焦点(中心)をぼやけさせることで、そんな映らないものを映し出そうとしたのかもしれないが、しかしそれは、果たして成功したのだろうか。

思うに映画にとっての世界とは、ただの断面ではなく、むしろ時間の中に表象される断面の連続によってこそ映し出される何ものか、なのではあるまいか。だから私達は映画の中に映し出される何ものか、しかも連続して映し出される何ものか(自己同一的なもの)を求めてしまう。だからこの映画のムッシュ・ユロがどこまでもその存在をぼやけさせても、結局のところ観客は、ムッシュ・ユロをあてどない視線の焦点(中心)として見つけ出そうとしてしまう。つまり観客はそれでも、そこに物語を見出そうとしてしまう。少なくとも映画にとっての世界が、ただの断面ではなく、時間の中に表象される断面の連続によってこそ映し出される何ものか、なのであるならば、断面の連続=物語とは、おそらく世界が世界であることの本質なのだ。

この映画は焦点(中心)を設けることなく、断片を切り取り並べることで、世界そのものを描こうとしたのかもしれない。だが世界そのものは結局映し出されることは無かったのだと思う。何故なら世界そのものとは、それ自体は地としての空白の時空そのものあるからだ。世界には人や物が溢れているが、それらの断片の集積こそが世界そのものという抽象的な枠組みを想定させるのであり、世界そのものが具体的な何ものかであるわけではない。そして断片は断片として、全ての断片は自ずから世界の中心以外のものではありえないのである。つまり映画のキャメラが世界の中の何ものかに焦点を当てて映し出す時、そこには常に既に、それを中心とした物語が動き始めているのである。

この映画は、そんな物語の断片を繋ぎ合わせてつくられたスケッチ集であると言ってよい。映画には世界の(物語の)断片は映るが、世界そのものは映らないという真実を逆説的に映し出したという意味で、このユニークな創作には意義があったとは思う。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)赤い戦車[*] 3819695[*] けにろん[*]

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