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[コメント] ハート・ロッカー(2008/米)

やっぱりそれはアメリカ人のアメリカ人によるアメリカ人の為の映画。「愛国心」という幻想に素直に自己を同一化出来なくなったアメリカ人の自己愛(自己憐憫)の行方。

これは言わば「状況」の映画かも知れない。そしてそれは米兵(米国)主観の「状況」だ。「状況」の中に放り込まれた人間が、それに如何に対処し、そして乗り越えていくか。ただそれだけの映画なのだと言ってもよい。そこには他者の物語を取り込んだ上で自己の物語を編みあげていこうとするプロセスが皆無で、只管自己の自己による自己の為の「状況」認識の映画なのでしかない。他者を取り込むことは、あるいは自己都合的な物語に他者を同一化してしまう危険もあるかも知れないが、それはそれでも他者への一つの態度でもあるだろう。しかしこの映画にはそのような他者を他者として、固有の事情をもった存在として認識しようという意識は皆無だ。たび毎に挿入されるドキュメンタリー的手ぶれキャメラ映像は、捏造された「主観」のリアリティの中に観客を閉じ込める。それは映画というメディアの基本的な手管、即ち互いに別個のものである時空をカット同士の連結に於いて一つの意味(物語)に結び合わせるという普遍的な機能から目を背けて、ある意味ではその場処に開き直って閉じ籠っているのではないか。勿論時折はイラク人や敵兵視点のカットもあることはあるが、しかしそれらは「状況」の中心である米兵という焦点を一応対象化する為に注がれた、存在論的には「客観的」な視点であるに過ぎず、決して各固有の他者の視点として挿入されているわけではない。

自己認識に閉塞し、他者への意識を意識的にか無意識的にか閉ざしているこの映画の提示する態度は、だから文字通りの意味で独り善がりだ。それは端的に自己愛の為させる業であり、また他者への想像力の欠如、あるいは否定だ。自己愛の発露がナショナリズムへの自己の投影でなく、戦争という状況に疲弊する個人像への自己の投影であることは今風と言えば今風なのかも知れないが、独り善がりで、他者への想像力を欠如、あるいは否定しているにということに於いては、旧来の当たり前にナショナリスティックな戦争映画と何も変わっていないと思う。アメリカ人がアメリカ人という自己を愛するその意識の中には、相も変わらず他者の存在が欠落しているということ。

それとも自己愛は必ず他者の存在を排除(無視)するものなのだろうか。あるいは自己愛の放棄は、自己の放棄に他ならないのだろうか。

(評価:★3)

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