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[コメント] うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー(1984/日)

やはり傑作だろう。「夢」という名の共同幻想の中でまどろむ都市への疑義。押井の原風景。その夢は「ビューティフル」かもしれないが、醒めなければ実はまどろみの中で腐り果てるだけなのだ。「夢」とは甘やかで強い。この後ろ髪ひかれる甘酸っぱさは、「夢」を描いたものとして極めて正しい味付けであり、そして押井にとって最も優しい作品なのかもしれない。
DSCH

**ネタバレ注意**
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(押井他作のネタバレあり)

押井作品の多くは、「夢を強いるもの」が登場する。それは戦争状態を制度化して世界の均衡を保とうとする「ティーチャー」や、電脳を管理する政府、「戦後日本」という社会(「高度経済成長」「中流」「メディア」という幻想・無感覚・思考停止)、電脳ハッキングで他者世界に侵食するハッカーなど様々な形をとって現れる。明確な姿形をとって登場しないことも頻繁にある彼らは制度化される共同幻想=虚構=「夢」という概念そのものであることが多い。そして多くの場合、彼らは世界認識を操作し、実存を惑わす「敵」として解釈されており、これをもとにした作劇の多くが「目覚め」にたどり着いている。

押井の敵とは「夢を強いるもの」なのだ。「強いられた円環の夢」を破るために「ティーチャー」に挑むカンナミ、ヒトとしてのアイデンティティを賭けてプラント船に殴り込みをかけるバトー、柘植の「めざめのテスト」を受けて立つ特車二課の姿は、目覚めたラムとあたるの姿がまとう輪郭と同じ強さを帯びている。それは押井なりの戦後日本社会への批判の眼差しに基づくものだ。目覚めたラムとあたるは、虚構を超え、最強のカップルとなるのである。

本作において「夢を強いるもの」とはラムと夢邪鬼なのだが、後作では問答無用のガチの戦いを展開させている押井の態度は、ともに目覚めに向かわせる本作においては優しい。言ってみれば目覚めた者としての高みから説教されている感すらある後作に比して、本作では押井自身が後ろ髪引かれて片足突っ込んでる感があって微笑ましい。

ただ、この「後ろ髪ひかれる感」こそは制度化される幻想=虚構=「夢」の表現の上でおそらく不可欠なのであって、この若さというか迷いというか甘さが、期せずして夢についての語りにおいて当を得たように見える。醒めて欲しくないほど「ビューティフル」で居心地がいいからこそ、私たちは「夢」に飼い慣らされてしまうのだ。夢邪鬼に眠らされた登場人物達が各自の「夢」に興じる場面は一見笑えこそするものの、やはり「牢獄に囚われている」というイメージが先行する。このあたりのテーマは意外にも『マトリックス』あたりですら変奏されていたことなのかもしれない。

・・・言ってみれば冬の布団からいつまでも出られなかったり、母の胎内のまどろみみたいなものと「都市というゆりかご」っていうテーマは近似性があるのかなあ、とか、目覚めっていうのは「誕生」そのものなのかなあ、とか自分で考えることがよくわからなくなってきましたが、あれこれ考えさせてくれる懐がドタバタでくるまれている、っていうのは、「作品」としてはどこまでも正しい在り方だと思う。つべこべ言わずともこれは面白いですからね。「うる星やつら」のイメージを逆手にとったヤバい画面に翻弄される感覚もたまらないし、伝説的ベテラン声優の絶技に酔うという楽しみ方も出来る。夢邪鬼の「存在し得ないビューティフルドリーム」に向けた詠嘆も沁みるし、何よりこの甘酸っぱさは尋常ではない。ダメだと思いつつも溺れてしまう、これは夢そのもの。

一方、そのテーマと「学園祭」を重ねてしまうあたりはやはり押井のニヒリズムというかいやらしさのようにも思えるし、ラムすら「セカイ」を都合良くあらしめるために「ビューティフルドリーマー」であることができなかったというのは、多くのファンの、それこそ「夢」を打ち砕いたことだろう。なかなか残酷な話であるとは思うのである。

・・・しかし、「責任。とってね」なんて可愛すぎると思う。可愛いすぎるよ。うん。

(評価:★5)

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