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[コメント] 春との旅(2009/日)

はじめ激怒しながら登場して厭悪を抱かせるも徐々に可愛げを覗かせて好感に転じさせるが、それは年齢不相応に幼稚な甘えに過ぎなかったことが露見して苛立たせ、しかし最終的にはそれも含めて愛すべき人物であると肯定的に受け容れさせる――仲代達矢の演技設計は少なくとも私には有効だった。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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とてもとてもあざとい映画だと思う。しかしそれをあげつらおうとも思わないのは、これがそれ以上に胸を打つ瞬間を持った映画だからだ。私は徳永えりに感動する。

仲代がステッキを投げ捨てながらぶりぶり歩み、徳永が必死にそれを追うファースト・シークェンス。この時点ですでに顕著なように、彼女の映画的行動原理は「自身と仲代との身体的距離を縮めること」だ。画面的に翻訳すれば「仲代と同一のフレームに留まろうとすること」であるそれは、「おじいちゃんと一緒にいたい」という彼女の言が偽りでないことをアクション/視覚的に示している。この映画における仲代を捉えた任意のロングショットを思い浮かべてみれば、その画面には彼の傍らに位置取る徳永の姿も同時に認められるのではないだろうか。しかし、私はこれが「規則」であるなどと云いたいのではない。「徳永が仲代と同一フレーム内にいること」を規則と呼んでしまうには、この映画はあまりにも多くの例外を持ちすぎている。私が云いたいのは、以上のような見方をすることで「徳永と仲代が同一フレーム内にいる画面」と「フレームによって隔てられている画面」双方の感情をより豊かに感受できるのではないだろうか、ということである。

徳永と仲代がフレームによって隔てられているとき。それはたとえば、仲代と大滝秀治の会談シーンであり、仙台の街で徳永がホテルを探し回るシーンであり、また彼女が父の香川照之と再会するシーンである。有体に云って、これらにおいて徳永の心は強く揺さぶられている。一語に集約することなどむろんできないが(だから映画はすばらしいのですが)敢えて試みれば、それは「不安」だと云ってもよいだろう。仲代と異なるフレームに位置させられるとき、不安が徳永を襲う。思い返せば、仲代が怒りを露わにしながら徳永を追い払おうとする冒頭にあっても、彼女が必死に彼と同じフレームに留まろうとするその画面には、何やら幸福の気配が漂ってはいなかっただろうか。少なくとも徳永が電車の座席を詰めて仲代ににじり寄るとき、宿を取れずに路上のベンチでふたり肩を寄せ合って眠るとき、それらは確かに幸福な瞬間だったはずだ。

ふたりが異なるフレームにいるときというのは、しかし彼らの身体的距離が離れているときとは限らない。近しい身体的距離を保ちながら異なるフレームに分断されている場合もある。すなわち、クロースアップによる切り返しを用いた対話シーンである。大滝を訪ねて後の民宿での夜、仲代は「自分は兄弟のところに居候するから、お前は都会に出ろ」と徳永を諭し、彼女は彼に翻意を促す。戸惑いと不服と慈しみをない交ぜにしたような徳永の表情。そして何と云っても、まだ乾ききっていない濡れ髪(小林政広は周到にも彼女を直前シーンにおいて入浴させていたわけですが、その風呂場の窓から顔を出す徳永と、二〇年ぶりだかに酒を呷って客室の窓から顔を出す仲代が、ロングショットによってやはり同一のフレームに捉えられていました)。ともかく、私が最も感動したのもこの徳永のクロースアップだ。これほどすばらしいクロースアップにはそう出会えるものではない。仲代とたかだかテーブルを挟んだにすぎない身体的距離にありながら、異なるフレームという「画面的には」無限大の距離で隔てられた場としての徳永のクロースアップ。私はこのアップカットひとつをもってしてこの映画を肯定してしまいたい。

(評価:★3)

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