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[コメント] ツリー・オブ・ライフ(2011/米)

緩やかに流れゆく映像のカメラアングルやカメラワーク、点描的に時間を切断するカッティングの、宇宙的な時空間感覚。マリックの所謂「映像美」とやらも遂に思想的な内容を持ち得たかと思いきや、中二病的宗教性のあられもなさ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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人の目線より上乃至は下のアングル、或いは天を仰ぐような仰角を多用しつつ滑らかに動き回るカメラワークは、映し出されていく人の営みが、大河的な時間の中のほんの一瞬に過ぎないのであり、カメラは時間の絶え間ない流れのままに流れていくのだ、という思想的姿勢の表われに他ならない。

それを、何ともせせこましい宗教性と、所謂「映像美」で押し切っていく幼稚さ。何やら大仰なように見えてその実“名曲アルバム”的なムード効果の域を出ないクラシック音楽の使用という、マリック流の気色悪さはここでも健在。キューブリックの選曲が、敢えて仕掛けた違和感だとか、既存の音楽を、この映像の為に用意されたのかと思わせてしまう合致感などで、驚きをもたらしてくれるのとは、まるで比べものにならない。

少年時代は、緑に囲まれた環境として描かれているが、父は息子に草むしりをさせ、「葉や茎だけじゃなく、根っこから取れ」と注意する。彼の職場も工場という、自然の支配を連想させる場なのだが、発明の特許が幾つもあると息子らに自慢していた彼は裁判で敗れ、会社からは、望まぬ異動を強いられる。そんな彼が、息子の前で、家で栽培していた植物の葉に無数の虫食いが出てしまっている様を目撃されるのは象徴的(「plant=工場/植物」をかけてるのか?)。一方、成人したジャックは、高層ビルの下で、僅かに残された緑の草を手で撫ぜていた。

自然への回帰。それはまた、冒頭で引用されたヨブ記が、神による天地の創造を、人間の業の小ささと対照させて語っていたこととも繋がる。自然への回帰はまた、母への回帰でもある。少年ジャックも母に対して「父さんから軽蔑されているくせに!」と、父への嫌悪がそのまま、父による母への男根主義的支配の模倣となる倒錯を犯していたのだが、最後の天国的イメージの中で皆和解(考えてみれば、非常に唐突かつ強引)。とはいえ、モン・サン=ミシェル(潮の満ち引きという自然の力に囲まれた教会)を舞台としたラスト・シークェンスの映像美はもう、映像が美しければ思想もまた美しいといった幼稚な感性が覗いて見えて、美しければ美しいほどに空虚に見えるという悪循環。

幾度か挿まれる、ゆらゆらと揺れる光のカットは、宇宙誕生に先立つ不定形のカオス、聖書の創世記で「神霊がその上を漂っていた」と言われている水面を思わせる。恐竜が、倒れた恐竜の傍に寄るシーンは河を舞台にしているが、思春期に目覚めたジャックは、河に母の肌着を流す。生命の源=母が性の対象となりかけたところで、それを自ら流してしまうという死のイメージ?ラストで、河の上に架かった橋が映るが、これは自然を征服する文明の象徴なのか、或いは「明日にかける橋」なのか。別にどっちでもいいけど。

次男の死は、キリストの死と重ねられているんだろうか。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)ぽんしゅう[*] 3819695[*] けにろん[*]

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