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[コメント] クラッシュ(2005/米=独)

他者が自分に向ける偏見を先取りしてしまう偏見。差別の解消を図った結果としての逆差別。同じ人種の人間の行為が生むイメージが自分に影響する屈辱。大雑把に見た印象で違う人種と一緒くたにされる事。異なる文脈で反復される、「車から降りろ」。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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スペイン人ではないのにスペイン人と呼ばれ、イラク人ではないのにイラク人のように見られる登場人物たち。この辺の描写から感じるのは、特定人種への偏見そのものというよりは、より大雑把な「外見から連想されるイメージ」が害を為しているという事だ。

錠前屋のマイケル・ペーニャが「妖精のくれた透明のマント」を娘にあげる場面は、この時点で既に娘の死亡フラグだと感じたが、実際は、確かに撃たれはしたもののその顛末は意外な形に。錠前屋の前に覆い被さって代わりに撃たれた幼い娘も、撃った雑貨屋の男の銃に空砲を入れていた娘も、共に父を思っての行為だという、人種を越えた普遍性が見てとれるのがこの脚本の妙だろう。尤も、いちいちそうした説明ができる理詰めの書き方がどうもせせこましく感じもするのだが。

この場面でより印象的なのは、やはりこの場面もペーニャが「車から降りる」行為が絡む場面作りが為されている事。この映画では、車から降りる事、降ろされる事が、日常レベルで行なわれる人種間戦争に引き摺りだされる事とイコールになっている。

劇中、「車から降りろ」と他人に命じるのは、カージャックと警官。体制の外と中の人間が、同じ行為をしている訳だ。だが、タンディ・ニュートンを車から降ろしてセクハラ行為をしたマット・ディロンは、この時には黒人差別を平然と行う男であるが、後に彼女を横転した車から降ろす際には、互いに一個の人間として向き合おうとしている。

この事は、車泥棒のクリス・リュダクリス・ブリッジスが、人身売買の為に車に閉じ込められていた人々を「降ろす」場面にも言える事。彼はその中の一人に食費として紙幣を渡した後、「バカな中国人め」と独り言をつぶやくが、彼らは中国人ではない。アジア人を十把一絡げにして見る彼の言葉は、だが同時に、人種に囚われない一個の人間同士の関係として彼らを救った事をも感じさせる。

描かれているのは単に人種間の対立だけではなく、親子間、夫婦間、市民と警官、職場での力関係、等々であり、そうした様々な局面での人間同士のクラッシュ、接触事故が次々と提示される形で脚本は構成されている。被差別人種が就職の面で優遇されている事への嫉妬など、人種問題を解消しようとする努力が却って人種差別的な憎悪を生む、逆説的な構図が絡み合う複雑さを描いた点に、この脚本の功績があるように感じた。

いちばん善い奴そうだった新人警官ライアン・フィリップが最後に黒人への警戒心のせいで相手を射殺してしまう顛末は、これに先立って彼が、興奮する黒人ディレクターテレンス・ハワードを命懸けで制止していた英雄的行為、その際の緊張感の名残りのせいで警戒心が高まった事が推測される構成になっているのが巧みな所。

このディレクターがああした暴走気味の行為に走ったのも、同じ黒人からカージャックに遭って、そうした人間がいるから黒人が偏見に晒されるんだ、と憤ったせいだ。結果、その彼自身の行為が、新人警官に偏見を抱かせる事になるという皮肉。証拠隠滅の為に炎上させられた車に、通りかかったディレクターが薪を放る行為は、この殺人に彼が間接的に加担していた事を示していたとも言える。

だが、憎悪も和解も、いかにも脚本家が計算して描いた印象が強く、人物描写がどこか誇張的、デフォルメ的なのが玉に瑕。サンドラ・ブロックのエピソードの扱いにしても、彼女が最後に家政婦に抱きついての「あなたは親友よ」という台詞は、ご都合主義的にまとめすぎではないか。そもそも「階段から落ちる」という描写は、映画に於いて妙に都合よく使われがちな気もしなくはない。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)シーチキン[*] 緑雨[*]

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