コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 晩春(1949/日)

カメラの動かない映画において、例外的にカメラが動く。その動きが被写体の心的描写に直結する。これこそが映画の基本だと思うのです。
TM大好き

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







いわゆる「小津らしさ」が完成した作品ではないでしょうか。例えば、作品冒頭からして、駅ホーム→線路→屋根→廊下という一連のカットの流れ、その巧みな構図はどうでしょう。さらに、途中のシークエンスを端折って、中盤、父娘で能を観劇するシーンを見てみましょう。その長めのショットにおける原節子の憎悪的な眼差しが印象的ですが、問題はその直後です。

観劇が終わり、父と娘が街路を歩いている。途中でいきなり、娘が父から離れ、用があるからと去っていく――ここで、小津は、例外的に移動ショットを用いています。この作品に限らず、小津のカメラは滅多に動きません。パンも俯瞰ショットも、極めて例外的な箇所でしか用いられません。しかし、例外的に動くからこそ、逆に、観客は強い映画的記憶を植え付けられるのです。この街路シーンにおけるカメラの大きな移動を目にすることで、観客は、この父娘の関係に「転機」が訪れている様を知るのです。言葉ではなくカメラの構図や動きによって物事を伝える。これが映画の基本です。

さらなる見せ場は、父が再婚の決意を告げるシーン。娘が父に「再婚する気なのか」と問いつめる。父は小さく頷く。娘が再度問いつめる。父がより強めに頷く。娘がさらに問いつめる。父がさらに強く頷く――多くの批評家が論じているように、ここにあるのは『父ありき』(1942)における川釣りシーンにも見られる「差異を伴った反復」です。この「反復」によって示される父娘の決定的な「別離」は、この上なく映画的記憶に満ちています。

そして、最後に空ショットの効果的な挿入。特に、ラストシーン近く、京都の旅館における壺の空ショットは、そのワンカットだけで重厚な存在感を放っています。観客は、この壺の空ショットを見つめることで、それまでの父娘の近親相関にも似た関係に終止符が打たれることを知り、嫁ぐ/嫁がない選択を回避する可能性の「不在」を知るのです。そして、ラストシーンでは、娘の部屋の空ショット。ここで、娘それ自体の「不在」が明瞭に示されます。

こうして『晩春』における演出の見どころを追ってみると、改めて、なぜこの作品が邦画史上 の逸品とされているかが理解できます。細部にわたって、抑制と均衡が緻密に計算されていて、少なくとも映画内在的な批判はなかなか困難です。特に、抑制という言葉からはほど遠い映画が多すぎる現代においては、『晩春』が神の領域にさえ思えてくるのです。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (7 人)おーい粗茶[*] 煽尼采[*] 死ぬまでシネマ[*] 3819695[*] 寿雀[*] たわば ina

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。