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[コメント] 晩春(1949/日)

魔物のようにさえ思える紀子(原節子)だが、彼女は自身の立場の不安定さに喘ぐ存在でもある。表情の振り幅の大きさ、彼女自身の動揺によって、映画全体を動揺させる眩暈的なダイナミズム。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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紀子についてはその「陰」の部分、父への執着心を露わにした眼差しの強烈さに目が行きがちだが、それ以前の「陽」の演技にしても尋常ではない。父・周吉(笠智衆)の再婚話が持ち上がって、表情を一気に凍らせるまでの前半、紀子は冒頭の茶会からずっと、小娘のようによく笑う。既に「箸が転んでも可笑しい年頃」でもなさそうな紀子の、初っ端からどこか箍が外れたような快活さからして既に、得体の知れぬ過剰さが感じられる。

このことは、小津作品初出演で不慣れな原の演技に抑制が利いていなかったのだと見たり、父と暮らす生活に紀子が感じている幸福感を表現するためにコロコロと笑わせたのだ、という演出意図を読み解くことも可能なのだが、理由はどうあれ、紀子の「陽」から「陰」への振り幅の大きさが、作品全体に、殆ど眩暈的なまでの濃密な空気をもたらしているのは確かだ。

この振り幅の大きさは、原の演技のみならず、紀子というキャラクターの置かれた立場そのものが抱える不安定さから発してもいる。父と居るか、嫁に行くか。この二者択一を迫られ続ける彼女の動揺がそのまま、彼女自身が観客を動揺させる表情の振り幅、菩薩の笑顔か、修羅の凝視か、という極端を導いている。

また、もうひとつ、二元論的な構造として、周吉の関わるシーンは和風、紀子ら若者に関わるシーンは洋風、という区分けもされている。紀子が父の助手・服部(宇佐美淳)とサイクリングをするシーン中のショットに現れるコカ・コーラの看板や、彼が紀子のためにチケットを用意した演奏会がクラシック音楽のそれであること。紀子の友人・アヤ(月丘夢路)の部屋の、洋風の内装。片や、周吉が紀子と連れ立って行くのは能の舞台。彼が妹のマサ(杉村春子)と出かけるのも寺。紀子が父と共に「小野寺のおじ様」・譲(三島雅夫)の再婚相手と会うのも京都の寺。

では当の紀子はといえば、まず、彼女の部屋は二階にあるのだが、一階と同じく障子や襖のある和風の造りながらも、椅子や時計は洋風の物という、どっちつかずの中間地帯・ノーマンズランドである。また紀子は、冒頭の茶会からして和風の領域、つまり父の領域にあるわけだが、他ならぬその茶会に同席していた三輪秋子(三宅邦子)が、紀子と父の二人きりの生活を破壊する存在として浮上することになるのだ。

物語の契機となる、能のシーンでは、向こう側の席で観劇している三輪に周吉が会釈したその視線の先を追った紀子もまた、三輪の存在に気づくのだが、会釈した後の紀子の顔がみるみる沈んでいく一方で、観劇を続ける周吉と三輪の顔は、熱っぽい眼差しを上方(つまり舞台)に注いでいる。このことで、恰も父と三輪が共犯関係のように見えてしまうのだが、ここで引きのショットが入る。すると、顔が沈んでいるのは紀子一人であり、父と三輪のみならず、観客たちは皆、舞台の方へ顔を上げているのだ。紀子は一人合点で、文字通り、自分の思いに「沈んで」いるわけだ。

ところで、周吉と紀子が旅先の旅館で布団を並べて寝ているシーンに挿入されている壷のショットについては、解釈を巡る様々な議論が為されているらしい。僕としては、壷そのものには意味は無く、紀子が「私、お父さんのこと、とても嫌だったんだけど…」と投げかけた言葉が父の熟睡によって中断された、その紀子の視線の先に何かを配する必要があったという以上のものではないと思う。ここで壷ショットが無く紀子の表情だけだとすると、どうしても観客の意識は紀子の内面へと吸い込まれてしまい、未だ自身の結婚を決めかねているように見えてしまいかねない。また、壷の代わりに周吉の寝顔にした場合には、父への未練が印象づけられすぎてしまうだろう。無意味な対象としての壷を眺めることしか出来ないことで初めて、紀子と父の別離が了解できる演出となる筈だ。更に言えば、壷ではなく例えば掛け軸だとしたら、平面的な対象なので視線が拡散してしまう。ちょうどいい具合に視線が収束する対象として、壷が適当だったということだろう。

この壷にしてもそうだが、冒頭の駅のシーン以降も、かなり空ショットの目立つ作品だ。単にワンカットが無人という以外にも、或るショットで人物がフレーム外に去った後、その不在に見入るような僅かな持続が与えられていたり、逆に、不在のショットに人物が入ってくるパターンもある。紀子がアヤの家を訪ねるシーンでも、紀子が見つめるドアの右側に柱時計を配することで、ドアの向こうからアヤが現れるのを待っている状況をそれとなく感じさせる辺りが巧い。

物語そのものも、紀子の不在へと収束していくプロットだ。だがそれ以前に紀子の方が、自分が存在する場として自明視していた実家が、父の再婚という事態によって、紀子の不在を促してくる状況に直面していたのだ。その紀子が最終的に収まる存在としての結婚相手は、これまた劇中の空間には全く不在である。その名前だけが語られるが、「熊太郎」などという、取って付けたようなもの。それに相応しく、マサによってコミカルな扱いを受け、遂には「くうちゃん」にされてしまうなど、完全に身体性を欠いた抽象的な存在である。

概ね受動的な存在である紀子・周吉親子。一方で、活発なマサが巧く事態を転がしていく。勿論コメディリリーフとしての存在感も抜群だ。彼女が周吉と寺を歩いているシーンでは、二人がちょうどいい辺りまで来たタイミングで鳩が一斉に飛び立つのが小津らしい計算高さを感じさせるが、それに続いて、マサがガマ口を拾って浮かれて歩く後ろから、警棒を後ろ手に持った警官が登場。既に画面の奥へ行ってしまっているマサ。ガマ口抱えて逃亡するかの如き杉村春子。

(評価:★4)

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