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[コメント] 晩春(1949/日)

原節子=紀子という突出したキャラクタの分裂性、あるいは怪物性。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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ここで原の分裂性とは、とりあえず「健康」という語を以って語ることができる。「永遠の処女」などという云い旧されたかつての呼び名を持ち出すまでもなく、原は絶対的に健康的な美貌の持ち主である。宇佐美淳とサイクリングをする場面も健康的だし、三島雅夫を不潔呼ばわりするなんていうのもいかにも健康的な思考だ。 このように原=紀子はすこぶる健康的な女性としてありながら、同時にきわめて非健康的なるものをも内に宿している。それについては時に憎悪に満ち、時に近親相姦をも連想させてならない原の視線、強度の塊とでも云うべきあの視線を思い出せばじゅうぶんだろう。あのような視線が健康的であるはずがない。

しかし、普通の人間であれば己のうちに健康と非健康とをともに持つことはむしろ当然のことである。だが、この『晩春』の原=紀子においては、その健康と非健康の度合いがともに甚だしく、そのため彼女は痛ましいまでに健康と非健康とに引き裂かれているのだ。このことはそもそも、まったく健康的な振舞いを見せている原=紀子が「戦争中海軍なんかで働かされたのがたたっ」て病気療養中だという人物設定のうちに見出すことができる。 このような異形のキャラクタを前にしては、平凡人たる父笠智衆はおろおろするか、あるいは頑固な父親を不器用に演じてみることしかできない。

私たちが『晩春』の結末に触れて流す涙は、物語の心理的な解釈に基づいて通俗的に云えば、愛し合う父娘が別れなければならない辛さ・寂しさや娘を嫁に送る父の感慨に共感し心を動かされることによるのだろうが、同時に、怪物原を笠という愛すべき無害な存在の外部に放逐することができた安堵感からくるものでもないだろうか(そう考えると、林檎の皮を剥いて項垂れる笠の姿は、あまりにも長きにわたった戦いを終え、精も根も尽き果てた老戦士のそれのようにも見えてこないだろうか)。

もし私の云っていることがまったくの無茶苦茶に聞こえたとしたら、どうかもう一度あの原の放つ視線を受け止めてみてほしい。どう考えたってあれは普通じゃない。あんな視線がありうることのほうが、私の云っていることよりよっぽど無茶苦茶だ。

といったように原節子の突出しまくったキャラクタがありながら、作品自体はそれにびくともしないというのがまたすごい。作品の強度はそれ以上なのだ。それは簡単に云えば全篇が完璧な画面とカッティングで埋め尽くされているからなのだが、これはむろん尋常なことではない。 加えて笠と杉村春子による「クーちゃん」のくだりなどの笑わずにはいられない挿話まで盛り込まれてあるのだから、もう堪りません。

(評価:★5)

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