[コメント] ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
このゴジラは、確かにゴジラに見えました。いや、今までも、いかに停滞期にあっても、ゴジラはゴジラだったのですが、しかし、登場人物の造形が浅薄だった昨今は、ゴジラだけがゴジラであり続けたことで、逆にゴジラだけが浮いてしまっておりました。
そう、ゴジラがゴジラに見えるのに必要なのは、アニマトロニクスでも科学考証でもありません。彼を取りまき、我々観客の視線をになう、血が通った登場人物達なのです。
この作品のドラマが弱いとの指摘もあります。たとえば、第一作にくらべたら、そうなのかもしれません。
でも、自分は、ゴジラがゴジラに見えたということをもって、主役の二人にも、ストーリーにも、ドラマにも、合格点をさしあげたいと考えます。
追記
クライマックス、三聖獣を倒し、体内に攻撃をくわえられながら、なお消えることなく聳え立ち、主人公たち=現代人にふりかかろうとする、その姿。
熱線を吐こうとする。
しかし、それは、あけられた傷口から霧散していく。それでもなお吐きつけようとする彼の姿――強烈でした。
怒りと憎しみという感情がこういう形でスクリーンに表現された映画を、自分は、知りません。
しかし、それは、第一作のそれと同じだったか?
残念ながら、そうではありません。何故なら、金子監督は戦争を体験していない――いや、金子監督だけではなく、我々も戦争を体験していません。東宝だけが初代ゴジラを失ったわけではなく、時の流れとともに戦争経験者を喪いながら、日本人そのものが初代ゴジラを失っていくのでしょう。
そう考えると、この映画の怒りと憎しみは、戦時中の戦後に対する憎しみではなく、現代人の現代人に対する憎しみにすぎないのかも知れません。
でも、これから映画を作ることができるのは、もちろん、これからを生きる人間だけです。
そして、取り返せるはずのないものを取り返すために、ゴジラ映画は作られ続ける――迷走を繰り返しながら。
何故か?
多くのものが消費され、忘れ去られていきます。特に、この国ではそうです。そんななか、かろうじて何十年とそこに在り続けているものがあるとすれば、ゴジラは、その一つと言えるでしょう。
そして、我々は、それでも過去を見つめ、過去と対話がしたいのです。
あるいは、“現代人による”と言い切れない部分がこの映画にもあるのだとすれば、作り手の誰もが変わってしまっても、ゴジラ自体の中には、何か消滅しない過去が残っているからなのだと思います。
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