[コメント] A.I.(2001/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
―デイヴィッドは情念の実践者、テディこそ愛の実践者― 『A.I.』における「愛」の考察
「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて 気が付けばそこにある物」―桜井和寿 Mr.Children『名もなき詩』より
「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる」―マルティン・ブーバー著『我と汝』より
「子供は最初、親を愛するが、しばらくすると親を裁き、許すことはまずめったにない。」―オスカー・ワイルド
「せめて保健所に…」と書いたのは、一緒に見た友人が獣医であったこともあるが、あのデイヴィッドがモニカに置き去りにされるシーンから、すぐに連想された言葉だった。「僕を捨てないで、いい子にするから…」と涙ながらにモニカに縋る姿は、保健所に連れて来られた犬や猫が、もし人間の言葉を話せるなら(もしくは、人間が彼らの言葉を理解できるなら)、きっと発している叫びに重ね合わせられる。犬や猫でなくとも、亀にしろ熱帯魚にしろ、何かしらペットを飼ったことのある人なら、あのシーンは胸を締め付けらるものではなかったろうか。
そこから考えると、モニカにとってデイヴィッドは「子ども」ではなく「ペット」に他ならない(「代用品」と明言してたっけ…)。つまり、モニカの実の息子にとってのテディと変わりはない。
それでは、デイヴィッドにとってモニカは何だろうか。「母親」であろうか。
物語の上では、デイヴィッドは、モニカを愛し、更にモニカから愛を得るようプログラムされてるようであるが、そうなると、まさに「愛とは何か」という定義問題に発展する。つまり遂行されるべき目標があって、更に明確に言語化・数値化されてこそ、プログラミングなのだから、「愛とは何か」というアポリアに、ズバリ答えなければならない。簡単に言えば、モニカがデイヴィッドにどう接すれば、どう関われば、デイヴィッドはその「データ処理」を終えるのだろうか。
「愛とは何か?」
思うに、愛とは「感情」のレベルで語られるものではない。そのベクトルが、神、人間、動物、自然、物質、どこにあろうとも、尽きることなく信じ、受け入れる勇気、ではなかろうか。観音菩薩、慈悲の世界である。その永遠性ゆえに言語を超越したところにある。
奥田K子氏が『愛のコリーダ』でのコメントで「『愛』が『ひとつになりたいと思うこと』なのだとしたら、決して融け合うことのできない肉体は、永遠に奪い合うしかないのかもしれない。」と書いておられるが、愛とは、まさに、そういう「専一性」に存在するのではないか。己の全存在をかけて、コミットする。そこには「対象」などという概念は存在し得ない。 #「一体感」や「共感」などが、曲がりなりにも「快」の響きを持つのはそういう点にあるのだろうか。
しかし、悲しいかな、我々は肉体の距離感に固執するあまり、肉体を超越した上での関係性に、常に疑念を持ちつづけるようにできている。まさに「業」である。ここからあらゆる悲劇が生まれると言っても過言ではない。
例えば、母親の呼びかけに対する新生児の声の音の波長はまさにピッタリ符合すると言う(つまり、母親の呼びかけの最後の波長と同じレベルで新生児は声を出し、新生児の声の最後の波長と同じレベルで母親はまた呼びかける)。まさに完璧な応答性(responsibility)である。ところが、その母子ですら、その「業」ゆえに、やがては乖離していき、更にその距離を拡大していくのだ。
話が逸れたが、要するに、デイヴィッドがモニカに求めているのは、この応答性ではなかったか。responsibilityは、日本語訳で「責任」であるが、まさに言い得て妙である。冒頭でオスカー・ワイルドの有名な言葉を引用したが、僕はこれぞまさに親の「責任」であると思う。裁かれても、憎まれても、疎まれても、許されずとも、我が子をあるがまま信じ受け止める。少なくとも、子どもに求められる「責任」ではない。# これを書いた後、改めて、実際に母親でいらっしゃるボイス母氏のreviewを読んで、胸を撫で下ろす…
もし、モニカにデイヴィッドに対して曲がりなりにも愛に近い感情があったならば、それこそ、きちんと処理場に連れて行くか、自らの手で手厚く葬ったはずである。野に放ち、処理場から逆方向に逃げろなどという、中途半端な態度は、まさに責任回避、否、放棄である。
更に言うと、子どもが親にその「責任」を求めることも、実は「愛」などではなく、「情念」であり「業」であり「エゴ」である。求めてはならない。既にあるのだから、否、既にあると掛け値なしに信じることが愛なのだから。そこで、見終わってすぐ書いたコメントには、「描かれたのは…」と収斂された。 # 僕がコピーを付けるなら「ロボットの情念岩をも通す」。 ## らいてふ氏も仰ってた、この映画のホラー並の怖さとは、こうした「情念」(+ストーカー性)故ではないだろうか。
しかし、見終わって1ヶ月以上経ち、様々な方向に考えをめぐらせてみると、実はこの映画、真の愛の実践者がいるではないか!
そう、クマのぬいぐるみ、テディ。
何か見返りを期待してるわけでもなく、実際何を求めるわけでもなく、いつもそっとデイヴィッドの側にいて、そっと手を差し伸べるテディ。ラスト、モニカの側で眠るデイヴィッドにそっと寄り添う姿、まさに親のようである。coco氏のコメントに大きく頷いた。
# 愛くるしい姿形に似合わぬあのオヤジくさい濁声には、そういう意図もこめられているのではなかろうか。普通考えれば『エクソシスト』ばりに怖い声なのに、テディファンが多いのも、その「温もり」と「安心感」にあるのではないか。
ひょっとすると、テディが主役なのでは?!
この推察は、キューブリックの意図とも、スピルバーグの意図とも外れているのかもしれないが、少なくとも、いろいろ深く考えさせられ、もう一度劇場に足を運んでみたいと思ったという点で、1点追加したい、と思ったが、もう一度劇場で観て確かめてからにしよう。
何かいろいろ小難しいことを書いた気がするが、要は、鑑賞後、テーマとして様々な考えるべき問題が残るが、「実にイイ映画だったー」と素直に受け止められない類の映画であると。まさにmayumix氏のコメント、ドンピシャである。
*追記1 文中登場のコメンテーターの方々、こっそりお名前、コメントお借りします。すみません。
*追記2 アメリカ文学専門の大学教授によると、ラストの進化系ロボット(宇宙人説あり)の会話には、「文学やる奴には非常に重要」なキーワードや概念があるらしい。9月の映画の日にでも見直してみるか…
*追記3 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のコメントで、僕は「トリアー監督は『愛』を描き切った。日本人なら『哀』である。」と書いたが、これは私が尊敬する教授の受売りで、先生が仰るには、近代以前、本来日本には「愛」という言葉なく、「哀」の当て字として生み出したそうだ。次は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の追加reviewでも書こうかしらん。
[8.23.01]
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*追記4 結局『奇跡の海』のreviewに続きを書きました。
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