[コメント] ゴジラ×メガギラス・G消滅作戦(2000/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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目くじら立てることもない。トンボ繋がりで極楽トンボが出てくるようなテイストの作品なのだ。そのトンボを見て、中村嘉葎雄が、「ありゃぁ、メガギラスじゃぁ……!」などと感慨深げにつぶやくくだりなどは、抱腹して楽しむべき。金子ゴジラが初代の血統なら、こちらはキンゴジの末裔だと思って、自分は歓迎します。
あるいはこの映画、シリーズの中での意義を考えるなら、平成シリーズにおいてゴジラが囚われ続けた近親相姦から、メガギラスがゴジラを解放した点だ。
ビオランテ以降、ゴジラはひたすら自分の分身と戦っていた。メカゴジラ、スペースゴジラは言うまでもなく、ゴジラと同じように誕生させられたキングギドラの設定然り、オキシジェン・デストロイヤーから生まれたデストロイア然り。ミレニアムにあってなお、オルガがゴジラと同化しようとしていた。
全部自分絡みで生まれた敵ばかり。自分が脇に退いた時は、モスラがバトラと戦っていた。
この、ゴジラが他者と出会えなかったという閉塞状況が、平成VSシリーズの失敗の原因だったと自分は考えるが、一方でゴジラは常にその時代のエンターテイメントを反映してきた。
ということは、90年代の日本のエンターテイメントは映画にしろ、漫画にしろ、(精神的な意味で)近親相姦の要素を含んだものばかりだったということなのだと思う。エヴァンゲリオンしかり、モンスターしかり。
何故そうなったのかを考えると、答えは単純、それがリアリズムだったから。つまりリアリズムにおける敵というのは、何かしら自己=主人公と関連或いは因縁があるものでなければならないという発想だったのが90年代のエンターテイメントであり、平成ゴジラは図らずもその発想の限界を身を挺して示してしまった。
その傍らで堂々と他者と渡り合っていたのが、平成ガメラと金子修介及び伊藤和典だったというわけだ。
追記:2002年三月二日
ミレニアム仕様のスーツは、前作を含めてたった二本でさよならとなったが、このスーツに感じた気色悪さは、作品におけるゴジラの性質がそのまま投影されたものだったと考える。
天災を象徴する破壊神たりえた初代ゴジラ像を求めようとし、失敗し続けた平成ゴジラ、それが出した答えがミレニアム・ゴジラだったなら、本物の神になれなかった結果、ゴジラがなってしまったのは一種、新興宗教的な観念性の強い神様だったのかもしれない。
ミレゴジの、誰もが引いた、あの台詞――
「ゴジラは・・・僕達の中にいるんだ!」
ただ、神を失ったのは、ゴジラ映画じゃない、我々日本人だ。宗教となると無条件に身構える今の我々の体質や、これと同じような胡散臭さが『もののけ姫』にも感じられたことを考えれば――
金子ゴジラには、これらとは別の迫力が感じられた。あれが初代ゴジラの系譜なのかは正直わからないけれど、失った神を虚構の中に取り返せる可能性を提示してくれたような気がしないではない。
一方で観念的な神様たる当作品のゴジラだが、作品が娯楽に徹すれば、これはこれで面白い。
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