[コメント] TAR/ター(2022/米)
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劇中で引き合いに出されるバーンスタインの箴言や、ター自身がその影響を受けて語るような、時として作曲者自身ですら意図・理解しなかったような「音楽の根源」を探り当てて表現するのに際して必要な「ピュア」なスタンスを貫き通せている人物は、ターだけでなく一人もいない。実在の偉大な作曲家(例えば主題となるマーラー)や指揮者ですら男尊女卑であったりなんだかんだと問題を抱えていたと様々に史実の引用がなされる。ターの恩師も「自分もいつ告発されてもいいように準備している」と話す(ターのおかれる窮地にわが身もと心当たりがあるのだろう)。白人至上主義だったから云々とバッハの「音楽」を否定するアフリカ系の学生の主張は私も到底許容できない(公開処刑的な指導には反発を覚えるが、例えば、同性愛者だったからといってチャイコフスキーの「音楽」を否定するのだろうか?)。クラリネットの首席奏者や新人チェリスト、副指揮者を目指していた秘書に打算がなかったと言えるのだろうか?ヒソヒソ話をする団員、失脚したターの横から指揮をさらっていくマーク・ストロング(序盤でターに擦り寄っていた)は一体何様なのだろうか?色眼鏡や汚れから脱した境地で「音楽」を理解し実践すべきであり(ほんものの「音楽」はそういった次元に存在している)、それと逆行するのは「音楽」への冒涜だとするターの「音楽」論は正常ですらあると感じる。しかしそれをそのまま実践できるのは残念ながら神の所業であって、不可能なのだということを、この戯画化された権威集団である「ベルリン・フィル」の頂点で、ター自身が最も痛切に理解させられてしまう。端的に、人間が演奏するのだからしょうがないのである。自らが偶像化され、また、自らを偶像化していく過程で、その虚像と実像、思想と行動の乖離に苦しむことになる。このストレスの積み重ねに執心する演出は、確かに的確ではある。それは頭がおかしくもなろう。これをはるかかなた、「音楽」が見下ろして嘲笑っている。
しかし、ゼロに差し戻されたターは終盤、悟りの境地に至る。通過儀礼のようなものだ。おそらくは無名であろうこのフィリピンのオケを起点として、人間のどうしようもなさを抱え込んだまま、あるいは超克して、「音楽」を地上に引きずりおろして彼女は「復讐」を始めるのだろう。ここで扱われているのはゲーム音楽で、聴衆が蛮族のような衣裳を着ているのはコスプレなのだそうだ。ゲーム音楽を低俗なものとしてとらえているなら私は猛反発するが、それはともかく、この「蛮族」のイメージは、彼女が今後創造しようとしている音楽が、旧弊的な権威主義に対する挑戦であり、彼女自身が「蛮族」としてヨーロッパに再上陸する反撃の狼煙という暗喩として受け取った。
しかし、これらの感想を書いてみて思うのだが、この帰結は「そりゃそうだよな」という感慨以上のものがない、普通の映画である。憎しみ、嫉妬、不信や猜疑心、妄想と狂気でぐちゃぐちゃになった末に、であればこその呪いのように禍々しいマーラー5番を振り切って、ラストに指揮棒で喉を突いて自死みたいなものを期待したので、なんだか肩透かしである。私は狂気じみた異常な解釈のマーラーのスペクタクルをクライマックスに観たかったのだ。この点、満身創痍で指揮をするシーンが一つのクライマックスだったかもしれない。しかし演奏解釈は想定範囲の「普通」なのだ。それはつまらない。もちろんケイト・ブランシェットの熱演は否定しない。
あと、素朴な感想なのだが、これを見てオーケストラを嫌いになってほしくないと思う。私は一応二十数年アマオケで演奏しているが、8割方、音楽を心底愛し、人格も優れた素晴らしい人達だ。その愛し方が個性的という意味で変態は多いが。
余談だが、実際の演奏はドレスデン・フィルだそうだ。ベルリン・フィルの音ではないな、と思ったが案の定だった。悪い意味でいい演奏なのだ。私の聴いているベルリン・フィルはあまり統制が取れていないことが多い。個が立ちすぎていて溶け合って聴こえない。溶け合えばいいってものでも当然ないのだが、仲が悪いんじゃないかと思う。これを知り合いにはっきり感想として述べると、それは録音やホールが悪いからそう聴こえるんだとよく分からないことを言われる。それはともかく、もっと(私が考える)ベルリン・フィルらしい演奏であれば、よりこの作品のイメージにはまったのに、と思う。
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