[コメント] プラネット・テラー in グラインドハウス(2007/米)
ロド氏にかかれば人体はかくも脆い。無数の人体があっけなく壊されてしまうのは銃火器/ゾンビの破壊力がためでなく、その脆さゆえだ。だからこの映画は儚い。盛大であればあるほど祭には「祭の後」の寂寞が忍び寄る。戯れの熱狂を浴びても壊れれば用済みとなる消耗品映画、その儚さを甦らせる、儚い試み。
フィルムの傷、コマ飛び、退色、巻ごとの喪失。これらのエフェクトは決して無作為の箇所に加えられているのではない。あくまでもシーン演出の一環として施されている。たとえ擬似的なものであるにせよ、このように物質としてのフィルムそのものに働きかける「演出」は、むしろいわゆる実験映画の発想として私たちに馴染み深い。フィルムそのものに傷を加え、あるいは彩色・描画し、果ては昆虫などの「モノ」を貼りつけるなどしたスタン・ブラッケージがまず代表的だろう。娯楽映画の求道者の態度は、ときに前衛的な実験者のそれと判別不能になる。たとえば、盟友クエンティン・タランティーノ(彼は後に物質としての「フィルム」「スクリーン」を凶器とする女性の復讐譚を構想するだろう)。あるいはバスター・キートン、フリッツ・ラング、ジャン=リュック・ゴダール。ジェームズ・キャメロンといった名前を添えてみてもよいだろう。ロバート・ロドリゲスもそこに名を連ねる。
娯楽の追求が不意に途方もない実験としての姿をあらわにすること。それは映画(史)的な必然である――などという大口は慎むにしても、しかし私たち映画ファンとは、そのような摩訶不思議な映画の二面性に魅せられてしまった人種のことではないだろうか。
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