[コメント] 宇宙戦争(2005/米)
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お人好し、ということで云えば、結末部および冒頭部のナレーションで語られていることを鵜呑みにしてしまうのもそうだろう。ひたすら画面を見て、画面を信じるのみの観客からすれば、この映画においてスピルバーグが「物語」ではなく「瞬間」に殉じてみせたことは明らかであり、したがってこの映画にとって「ナレーション」=「言葉」/「物語」はまさしく取ってつけたものでしかないことも明らかであろう。この映画の怖ろしいところは、あのナレーションを聞かなかったことにすれば(また眉唾物のナレーションなのだから、聞かずとも一向に構わないのですが)、攻撃を加えてくる者たちが「宇宙人」であるかどうかさえも判然としないという点だ。劇中に彼らが宇宙人であることを明示する明確な(画面的)証拠はいっさい登場しない(確かにここでの「宇宙人」はその姿をカメラの前に晒しさえしますが、どうしてその姿から彼らが「宇宙人」であると決めつけることができるのでしょうか。たとえば、彼らが「地底人」であるという可能性はまったくないのでしょうか)。宇宙人という語さえ一度も発せられなかったのではないか。原題もこれが「世界間の戦争」であることしか示していない。だから裏を返せば、ここに発露しているのは「でも相手がまったく正体不明じゃお前ら(観客)は納得しないんでしょ。じゃあ宇宙人でいいよ宇宙人で。オチもウェルズの小説からまんま持ってくるからさ。んでそこんとこはナレーションにでも云わせとくよ」というスピルバーグの物語に対する興味のなさであり、悪意にほかならない。
それでは、ここでスピルバーグが物語を捨てて殉じた「瞬間」とは何か。それは物語に回収されない、断片化された、自律的な、映画的瞬間だ。唐突に画面を横切る炎に包まれた列車であるとかパニック・シーンにおける諸々のショットがまずそうであることは云うまでもないが、たとえば前妻の家にてサンドウィッチを食べようとしない子供たちに腹を立ててピーナッツクリームまみれの食パンを窓ガラスに叩きつけたクルーズが、パンの張り付いたままのガラス越しで「ここは安全だからもう心配ない……」か何か云って格好つけている、その面白さ。殺人マシンを「意思のある(しかし意図は分からない)生物」として演出できているのも偉い。クルーズやダコタ・ファニングが触手に縛られて振り回されるさまを見せるロングショットの絶望感を突き抜けた滑稽さ、すらも突き抜けた絶望感。
いや、そんなことをひとつびとつ挙げてもキリがないだろう。とにかくこの映画は「瞬間」の連続だけで一篇が成立することを目指した、近年アメリカ映画の一大突出点だ。
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