[コメント] 緋牡丹博徒 仁義通します(1972/日)
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藤純子の演技は、この4年に及ぶ『緋牡丹博徒』シリーズの主演を張ることでとてつもない貫禄を身につけ、本作ではその余裕さえ感じさせる程であった。蛇足だが、本人が唄う主題歌さえ心なしか音程が整い上手になった気もする。(レコーディングし直したのだろうか?)
さて、本シリーズの最大の見所といえば、ラストの殴りこみの道行シーンに尽きるのだが、本作では遂にお竜の兄貴分の「シルクハットの大親分」こと若山富三郎が同行する。さらに定石として、友人以上恋人未満の通りすがりの旅人の男(今回は菅原文太)も同行するという3トップであった。
まさに「兄」と「恋人」に両脇を守られての道行である。
そして今回、異例とでも言うような殺陣で藤純子は後ろから袈裟懸けに斬られる。颯爽としてきたヒロインが鮮血に悶え、スーパーヒロインのまさかの「死」をも予感せざるを得ない展開に私は息を呑んだ。息も絶え絶えに戦うお竜に私は「リアル」を感じ、「女」を感じた。
そして極めつけは御大片岡千恵蔵の登場であった。圧倒的な手勢を引き連れての援軍にも関わらず、直接にはお竜の敵討ちには手を出さない。それはまるで「父」が「娘」を見やるような厳しさと優しさが混在したかのような存在感であった。
「女は弱き」と言ってしまっては女性蔑視とお叱りを受けるだろうが、このシリーズ最終作においてお竜は、「兄」「恋人」「父」という男達の支えを受けて去っていった。「強き女」の象徴的な存在であった「緋牡丹のお竜」だったが、息も絶え絶えにふらつきながらスクリーンを去っていった。
こんなラストは一時代を築いた『緋牡丹博徒』シリーズには酷だったかも知れない、納得出来ない観客もいたかも知れない。だが、私は素晴らしいラストシーンだったと思う。片岡千恵蔵の手勢が道の両側を固めて整列する中を、鮮血に染まった藤純子がふらつきながらも歩いていく。まるでこれは藤純子の葬送の為の厳粛な儀式を見ているかのようでもある。
あえて極論かも知れぬが言う、このラストの葬送シーンは「任侠映画」の葬送シーンであったのかも知れぬと思うのだ。脇を歩む若山富三郎が腕に抱くのは菅原文太の遺骸だ。藤純子引退のこの年は1972年。翌1973年に『仁義なき戦い』が公開され、名実ともに「任侠映画」は終焉を迎え、「実録路線」が始まる。
PS:この後急遽、東映サイドから「もう1本」ということで『純子引退記念映画 関東緋桜一家』という前代未聞のタイトルの作品が稀に見るオールスター出演、および御大マキノ雅弘を引っ張り出して制作される。お祭り映画である。
私は思う。本作こそが稀代のヒロイン藤純子の最後の作品であり、「任侠映画」の終わりを表していた作品だったのだと。
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