[コメント] その男、凶暴につき(1989/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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走って逃げる犯人を車ではねて止めさせる。「何も轢くことないじゃないですか」。妹に手を出した男(たけし軍団の秋山見学者)を非常階段からけり落すシーンは、いつもテレビで見慣れた光景だ。世界の北野が、まだたけちゃんと呼ばれていた頃。閑散とした(笑)劇場では、ギャグとして笑うべきなのか、吾妻の狂気にひきつるべきなのか、観客のとまどった反応が面白かった。
ビートたけしの芸風が最も輝くのは、既成概念や、世間の良識、権威といったものに反発し、これをこきおろすことなのだが、お笑い・TV界では、もはやかみつくべき相手もなく、自ら権威となってしまい、シリアスなドラマでの演技、小説やイラストなどの分野でも評価されてしまった頃、「映画作り」というのは、久々真っ向から「壊してやろう」というような強敵に巡りあった、というところだったように思う。当然といえば当然だが、映画を壊すために、たけしはお笑いで培ってきたノウハウを用いていくのだ。
まずやったことは、「定石の否定」で、それはたけしがネタを作るときの最も基本的な手法だ。そもそも現場にかけつけた刑事が、誰がタクシー代を払うとか払えないとか言ったり、犯人を追跡中、疲れて追うのをあきらめちゃうなんていうのは、たけしがお笑い特番でやっていた「刑事ドラマ」のパロディのネタそのものだし、ホームレスの顔のアップから始まる冒頭も「そんな映画はいままでにないだろう」といういたずら心がそもそもの理由らしい。キャスティングからして、「刑事側に悪人面、悪人役に好青年」という明確な狙いがあった。なにしろ黒幕は本当は久米宏(当時ニュース番組で庶民派キャスターとしてとりわけ好感度が高かった)を想定していたらしい。当然不可能なので、岸辺一徳が演じることになった(今でこそ何を考えているのかわからない不気味な役柄を得意としている俳優だが、この映画以前は素朴な善人というのがこの人の定番で、悪人役はこれが初めてだったように記憶している)。ラスト、決闘の跡を一瞬浮かび上がらせるという印象的な場面を作り出した倉庫の蛍光灯は、「(決闘は)かっこいいからって大概暗いところでやっているよな」というのに反発し、倉庫に入ってくるなり「まず電気をつけちゃう」というのをやろうと想定して、わざわざ作品用に設置したものだった(結局はテンポやかっこよさをとって「暗いまま」で決闘をすることになったのだが)。
次に「間」。これも従来のドラマにおける「芝居らしい自然なテンポ」というものに対する反発から始まっている。テンポや間合いに関して比類ないセンスを持っていた芸人だけに、これには特別なこだわりを持っていたように思う。また、芸人としてのそれとは別に、黒澤明の演出が意識にあったようにも思う。端的に言えば『椿三十郎』の決闘シーン。じりじりするような長い間があって、一瞬にして勝負が動く。子分から撃たれうずくまっていた白竜が反撃するシーン、署長からの呼び出しになかなか応じないで、向かいの席の刑事のほうがじれるシーン、白竜・たけしが歩道橋でニアミスし、たけしが「あいつだ!」と気付くまでの長い時間と翻し追いかけに行くシーンの緩急などは、たけしがもし自分が監督になったら「絶対にやってみよう」と考えていたことのように思う。また、売人を便所でビンタするシーンの異常な長さ、逆に、現場に向かうパトカーの車中、しゃべりに夢中になって、あぶなく自転車をははねそうになるシーン(たけしと運転していた刑事の「気をつけろよばかやろう」「すいません」という台詞のテンポがまた良い)の「唐突さ」など、かなり確信的に行われている。
これら計算で行ったことにも増して才を発揮しているのが「アドリブ」だ。前述した倉庫での決闘で、「どいつもこいつもキチガイだ」の台詞のあと、一瞬点灯され、また消される蛍光灯という演出は、せっかく蛍光灯を用意してくれたのに使わなきゃ申し訳ないというので考え出されたものだった。また、何気なく葬式の合間にゴルフの素振りの格好をしている芦川誠のシーンは、なんとなく面白いと思って撮っただけで、真面目そうに見えて実はそうではなかったというラストの伏線ではなかったらしい。なぜゴルフの素振りをしているところが面白いと思うのだろう?頭だけで考えていては浮かばない絵だ。売人をビンタするシーンの長さは、役者が「少しでも長く映ろうと思ってなかなか台詞を言わなかった」からああなったそうだ。多くの監督が、現場で偶然起こった「予想しなかった事柄」をたくみに採用していることだろうが、さすがにこういう嗅覚はライブできたえている芸人の賜物だろう。アドリブといえば、なんといってもこの映画のラストのどんでん返しこそ最たるものだろう。順撮りのこの映画(北野作品は基本的にみな順撮りらしいが)、芦川誠はずっと最後に吾妻の敵討ちをやるつもりで演じていたのに、土壇場でああされてしまって唖然呆然だったらしい。
ここで書いたことは、当時たけしがパーソナリティをつとめていたラジオ番組「オールナイトニッポン」での話(ということはネタかも知れない)や、この時期のインタビュー記事などの記憶にもとづいています。中でも直接引用したというわけではありませんが、きっと多くの情報はここから仕入れたと思うので、参考文献として「監督たけし―北野組全記録 佐々木桂 著(太田出版)」をあげておきます。
最後に、好きなエピソードを紹介します。いろいろと新たな試みを成したたけしではあったが、すべて自信満々に行ったわけではなかったようだ。映画の文法をいろいろ壊していくうちに、「何かとんでもない間違いをやらかしているんじゃないか」と、ある映画監督に話したところ、その監督は「何でも自由に撮っていいんだよ」と言ってくれたのだとか。その監督こそ今村昌平監督でした。この台詞、何か物作りで迷った時に聞くと勇気百倍です。
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