[コメント] 最後の人(1924/独)
たとえばルビッチ『生きるべきか死ぬべきか』を「ドアー」の映画と云うとき、それはドアーの説話的な装置ぶりの見事さ(ドアーが開閉するたびに物語が展開する)を指しての言であろうが、一方『最後の人』を同じく「ドアー」の映画と呼ぶ場合、それはもっぱら視覚的な過剰としてのドアーを持った映画という意味である。前述の回転ドアーをはじめ、この映画に登場するドアーの多くが(ホテルの映画にふさわしく)ガラス張りであったことを鑑みればむしろ、その映画的な機能は「窓」に近似していると云えるだろう。すなわち、空間を切断しつつ接続するという機能である。この映画において私たちが、あるいは作中人物が「ガラス張りのドアー」越しに目撃する出来事の数々を想起しよう。ここで「ガラス張りのドアー」とは端的な視覚的アクセントであるとともに、ワンカット/ワンフレームのうちに「距離」を導入している。それはカット割りが二空間にもたらす絶対的な距離(切れ目)とは異なり、空間=画面内を「切断しつつ接続する」多義的な距離である。このような多義的な距離を展開した画面を持っていることもまた「映画」の豊かさのひとつだろう。
さて、次のことに触れずしてこの映画について語ったことになるのか甚だ疑問なので(そもそも「映画」について語ることなど可能なのか、という問題はとりあえず措いて……)、申し訳程度ながら述べておこう。どうしてこの映画はひとつのスポークン・タイトルもなしに一篇の物語を語りえたのか。むろんそれにはさまざまな要因があるだろうし、いろいろな云い方もできるだろうが、エミール・ヤニングスの無声映画性を窮めたかのような演技とそれが決してオーヴァ・アクトとはならない作品世界の構築がその要因のひとつであったことは間違いない。また、「衣裳」の物語を極度に推し進めることによって獲得されたメタ映画性も興味深い。要するに、映画においては多かれ少なかれ衣裳=見かけによってキャラクタは造型されるということ(もちろん、無声映画ではその傾向が現代の映画よりも強いでしょうし、またその仕方が不味ければ、リアリティに欠けるだの子供騙しだのと批難を浴びるでしょう)。
最後に。ヤニングスらが住む「集合住宅」の外観の存在感はいったいどうしたことだろう。その不気味さははるか遠くコスタ『コロッサル・ユース』の集合住宅と響き合っている(ああ、またいいかげんなことを云ってしまった……)。
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