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[コメント] 機動警察パトレイバー2 the Movie(1993/日)

モラトリアムとしての「その後」。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







それは「その後」の世界の物語だ。まずテレビやマンガによる特車2課の日常を描いた『パトレイバー』シリーズの「その後」としての、また戦「後」の日本社会という意味での「その後」としての、そしてバブル崩壊「後」の日本社会という意味での「その後」としての世界の物語。バブル崩壊後と言う為には多少捻りが入ってしまうが、実体経済から遊離した金融経済が旧来の日本社会をある意味崩壊させたように(ちなみに言えば『P1』はその崩壊過程にある世界の物語であったのではないかと思う)、『P2』劇中ではマスメディアの中を交錯する実体から遊離した情報が、やはり日本社会を破綻の危機に陥れる。だからこれは、その意味では崩壊「後」というより「中」の描写になるのかも知れないが…。ともあれ、それはそういった意味で「その後」の世界の物語であり、そして問題は、未だに2011年の「今ここ」に於いても、〈今ここ〉の現実認識としてそれが通用してしまうように思われることだ。

ところで、所謂「セカイ系」という言葉がある。その定義はじつは曖昧なものらしいが、それでも敢えて定義すれば、「社会という人間と世界とを媒介する中間項の具体的イメージを欠いていて、その為極私的な人間関係の問題がそのまま世界の命運と直結してしまうような問題の如くに描かれる」というような作品のことを指す、らしい。しかし思うに、そういうことであるならば、そういう要素は恐らく人間の想像力の回路に予め組み込まれているものと思われ(古代の神話だって大概人間臭い神様達の相関的ドラマが世界の命運と直結しているし、グッと卑近に引きつけても、近代社会に於ける平凡な男女のメロドラマだってやはり自分達が世界の主人公であるかの如き錯覚の元に成立する。そしてそれらの物語の受容者は、それを自分のことのように見て、感じて、考える…)、つまりそれ自体は新しくも古くもない話なのだ。

では何故殊更「セカイ系」なんていう言葉が一時期浮上してきたのかと言えば、勿論端的に言って個人の実感としての社会のリアリティが崩壊したからだろう。社会のリアリティとは、結局のところ生気ある生身のあの人この人との関係性の延長線上にあるイメージのことだ。社会のリアリティの崩壊とは、それ故に社会に於いても個人に於いてもそのイメージが抱けなくなることを指すだろう。あるいはここから、社会の崩壊から個人の内向なのか、個人の内向から社会の崩壊なのか、ベクトルはどちらなのかと考えられるかも知れないが、生身の個人を生身の社会がすくいあげて育てていくものだとするなら、やはり社会の崩壊が先だとは思う。個人の育成の初期段階でその為の社会の具体的な機能(生身のコミュニティ)が不全状態になっていて、それによって生み出された個人の不全状態が更なる社会の不全状態を生む、そしてそれが以降も悪循環を繰り返す。(だが、親はかつて子であり、子はやがて親であるならば、その時間的な連鎖の過程にあって、どちらがどちらを悪いと指弾することも出来ない。社会の不全状態の解消は個人の自覚的実践からしか始まらない。)

ともあれ、所謂「セカイ系」というのは、社会の崩壊の「その後」の世界の物語だったということだろう。その言葉の切っ掛けになったのだという『エヴァ』も「その後」の世界の物語だったが、「その後」の世界の物語に特徴的なのは、社会の崩壊と共に歴史も崩壊していて、その世界が過去から未来へという時間感覚からも断絶してしまっているということだろう。社会が空間なら歴史は時間で、そういった双方のベクトルから断絶した「セカイ系」の主人公は、ひとりきりで「いつ」でも「どこ」でもない〈今ここ〉の世界に晒される。

それで『P2』だ。

押井守の作品は押し並べて「セカイ系」にも括られるらしいけれども(ということはやはり「セカイ系」というのは必ずしも世代的な特徴ではないということになるが)、その純粋な表現に到達しているのは『天使のたまご』だと思う。この作品もまた、社会のイメージなど微塵もなく、互いに自己の写し鏡なのであろう「青年」と「少女」のナルシスティックな道行のイメージを描いた映画だと言える。そしてこの作品もある意味、「その後」の終末後の世界のイメージに準拠している。社会も歴史も儚い残像と遠い残響でしかなく、その残骸の廃墟の中を一対の「青年」と「少女」があてどなくさ迷う。そこで思うのが、『P2』はこの『天使のたまご』の「その後」の物語、続編にあたるのではないかということだ。

P2』に於いては「青年」は柘植であり、「少女」は南雲。(だから、柘植と「青年」の声を演じているのが同じ根津甚八なのは意図的な配役だったのだろう。)『天使のたまご』で「青年」は「少女」の(モラトリアムの象徴のような)空っぽの卵を叩き割って、「少女」はそこで、言わば「大人」になって死せる歴史になってしまったが、叩き割った「青年」はその閉塞した世界に取り残され、やはりあてどなくさ迷い続けることになった。『P2』は言わば、その中の「少女」が「青年」に再会しに行く物語なのではないか。埋立地で向こう岸の陽炎のような東京を双眼鏡で見つめている柘植の元に南雲が辿り着き、手錠を掛けて逮捕する。その時に両者の手と指の絡み合いが一瞬象徴的にねちっこく描写されるが、そこで南雲が柘植に手錠を掛けて両者を繋ぐことは、南雲の警察官としての最後の仕事であり、それ故同時に警察官としての死をも意味する。そこでテロリストとしての柘植もまた死に、言わばその瞬間、両者は単なる男女になってしまい、社会的立場にある者としての両者の心中が成立する。(ある意味『失楽園』なイメージだが、『失楽園』もまた中年男女の「セカイ系」だったのかも知れない。)後藤隊長の事前の懸念は、やはり現実になったわけだ。

無論だからと言って、『P2』が「セカイ系」だったというわけではない。そういうわけではないが、少なくとも過渡期にある作品ではあったし、それが作劇の構造に反映されている作品なのではないかとは思うのだ。社会のリアリティはマスメディア上の情報の錯綜の彼方に遠退き、劇中の東京の中で蠢き立ち尽くす大衆も自衛隊員達もほとんど影像か人形のようでしかなく、それは『天使のたまご』の巨大な魚の影を追跡する物言わぬ男達の姿にも重なる。そんな中で辛うじて生身の人間らしい生気を保っているのは、登場機会の少ない特車2課の面子だが、彼らは麻痺して崩壊しつつある社会的機能の最後の戦力であって、過去からの遺産ではあっても未来への希望としては描かれていない。彼らはあの後、警察官としての社会的身分を失うかも知れないことが事前に示唆されてもいる。彼らがそれでもその「仕事」に殉じたのは、組織人として以前に職業人としてのプロ意識からだが、それを育成出来た社会もまた過去のものとしてそこでは描かれている。(たとえば熱血指導教官となっている太田は孤立し、後藤隊長もまた新世代の隊員達とは本当の信頼関係を築けていない。)

柘植と南雲の邂逅は、社会を攻撃する立場にある者と防衛する立場にある者との融解を意味する。つまり社会の輪郭の喪失だ。(ここで役所広司が主演する黒沢清の『CURE』や『カリスマ』を想起しても間違いではない。)社会の輪郭の喪失とは、つまり社会と世界の臨界の喪失であり、「その後」は個人が世界と直接向き合わねばならないことになる。ここでの「世界」とは、イコール自己のことだと言ってもいいだろうし、同時にある一個の社会(たとえば日本社会)にとっての他者(他の国家社会)の総体としての社会と言ってもいい。『P2』劇中、日本が独自で状況を打開出来ない体たらくを晒すに際して、米第7艦隊が東京に向けて西進中という報告の後、荒川は「国家に真の友人はいない」と呟いてニヤリと嗤う。生身の顔と体をもたない、概念とイメージだけの存在である国家には、本質的に政治的動静だけがあり、それ故「真の友人はいない」。社会を喪失した「その後」の個人が向き合うことになる「世界」とは、その様なものなのではないかと思う。

ところで、『P2』の東京を襲う決起部隊は主に情報インフラを集中的に攻撃して破壊する。これはつまりマスメディア上のコミュニケーションのあり方への拒絶の姿勢なのだろうと思う。マスメディア上のコミュニケーションは、じつは情報の共有化(一元化)による社会イメージ(敵味方の区別)の排他的政治的統合を暗に志向しており、情報の撹乱によってその志向を妨害して分散化(多極化)させた後、その基盤となっている情報インフラそのものを破壊する。そんなものは現実ではない、と。では何が現実なのかと言えば、結局は、事件を解決することになる特車2課の面子が体現していたように、生身のコミュニケーションによって培われた人間関係だ、ということになるのかも知れない。(尤もそういったイメージも、同じ押井守のこれ以降の『攻殻機動隊』等の作品では、生身の身体的リアリティ自体への疑念として自己解体的になっていく。その主題の先鞭は『P2』でも新しいレイバーのインターフェイスという形で描かれている。)

柘植は最後に、何故これだけのことをして自決しなかったのかと聞かれて、「この街の未来を見ていたかったから」と答える。だが、既にそこで柘植が口にした「未来」に到達してしまって久しい筈の2011年の「今ここ」に於いてさえも、柘植の策謀して演出した「状況」は、「いつ」でも「どこ」でもない〈今ここ〉のリアリティとしてあり続けているように思えて仕方がない。たとえば9.11のテロや、あるいは3.11の震災による危機は、日本社会の外部から突きつけられた「状況」ではあるが、これが日本社会にとって、『P2』に描かれたような「その後」の閉塞的なモラトリアム状況を打破する切っ掛けになるのかどうか。それがこれからの主題であるのだろうとは思う。

(評価:★4)

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