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[コメント] 続 夕陽のガンマン 地獄の決斗(1966/伊)

マカロニ弥次喜多珍道中(コント集)。「珍」と「ガチ」のバランスが悪い。キャラクタの博覧会だけでは、私は逝けません。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







※ ウエスタンのネタバレあります。

ウォラックが鶏肉と短銃をひっつかんで窓ガラスを蹴破る登場シーンの静止ショット、煙草を食わせ、食わされるシーンのカッティングの鮮やかさ、いい意味でバカ丸出しのオープニング(『マチェーテ』が継承する)、三人のラストショットなど、断片的に好きな要素があるのだが、どうにも一連の流れというかグルーヴ感の中で高揚を覚えない。

「キャラクタリゼーションこそ映画だ」とする意見を否定する立場に私は立っていない。例えば私は『デス・プルーフ』にためらいなく★5をつけるのだが、その技法を評価しつつも自覚的・批評的であるからこそ映えたクラッシュシーンの衝撃に準じる印象がここには皆無で、どうにもしまらない。「一瞬で一つのキャラクタが死滅する」という容赦のなさにおいてガンファイトとクラッシュシーンが相似形にあるにも関わらず、である。本来ガンファイトと執拗なキャラクタリゼーションは相性がいいはずだと思う。

俳優のキャラクタがそのまま作劇上のキャラクタに投影されて「終始守られている」というぬるま湯的安心感があまりに著しい。対するクリーフの造形がまた半端で唐突な分、思い入れが入らないのでガンファイトが決定的につまらない。「どうせコイツやられちゃうんだよね」と、キャラクタリゼーションの軽重で簡単に予感されてしまう。

後作の『ウエスタン』ではブロンソンは冒頭で撃たれたり立ち回りが結構ダーティであったりする。また、カルディナーレのグレーな立ち位置、あっさり女子どもを惨殺しながら妙においしいフォンダの立ち回りや、冒頭の決闘で一瞬にして葬られる側として起用される予定だったキャストなどについて考えたりすると、シンプルながら、執拗なキャラ造形と「裏切り」の巧妙なバランスが映画を支えていたように思う。その見方においてはこの映画はあまり面白くない。作り手がキャラクタに対して公平でない。『ウエスタン』では最後に立っているのは誰か、最終的にはわからないという緊張感がさりげなく演出されていた。ブロンソンの行動の動機が終盤で明かされるというのも、その動機の内実は定番ながらいい味を出している。

また、唐突な例えだが、『トカレフ』の「決闘シーン」はどちらが最後に立っているか分からないお膳立てが完璧だった。主題はそこにないと理解しつつも、どうにも退屈。是非ともイーストウッドを殺して欲しかった、とかそういうことではないのだが・・・冗長な尺の行間に感情の動きも少なく、主演二人の愛嬌がなければ目も当てられない。

またキャラクタリゼーションそのものもどうもいい加減な雰囲気で、イーストウッドの「余裕」も強者であるが故の余裕というよりも、「映画に守られている」という弛緩した空気が漂う。ウォラックの尾行を待ち伏せして構えられたと思われたライフルが別のならず者に向けられているというショットから、一気に間合いを詰めたウォラックに銃を突きつけられている、という一連の流れ。ウォラックの「砂漠の拷問」に自ら起死回生の一手を打つかと思いきや結局為す術なく倒れ伏す。ウォラックの「素朴さ」も各所に矛盾。この拍子抜けぶりに、ある意味腰が抜ける。

「橋爆破」における取って付けたような反戦の意味付与も夾雑物としてしか作用しない。潜入して爆薬盗んで橋を爆破して、結果的に戦争を蹴っ飛ばした、なら粋でいいのだが、大尉のウエットなキャラが娯楽映画として邪魔だ。むやみに広げた大風呂敷がまたバランスを悪くしている分、前作よりもノれない。そもそも、「(南北の)断絶」による一時しのぎの平和なんて、あっさりと感動できるものではない。

「楽しんだ者勝ち」というお祭り性を肯定できない私には相性が悪かったということだろうけど・・・うーん。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] Sigenoriyuki[*]

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