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[コメント] 審判(1963/独=仏=伊)

戦慄の傑作。カフカの小説に対峙するために必要なことがひたすらすべての語を読むことであるように、ウェルズの映画に対峙するために必要なことはひたすらすべての画面を視ることだ。
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ところで、不条理不条理とさも当たり前のように云うけれど、フランツ・カフカのいったい何が不条理なのだろうか。それはもちろん「カフカの小説の中で起こっている出来事」が不条理なのだが、ただそれだけのことであれば、カフカの不条理性などというものはその小説のプロットをなぞるだけで容易に映画に移し替えることができるだろう。だが、そんなはずはない。だからカフカの不条理とは何かについて、無謀を覚悟で私なりの言葉でもう少し厳密に云えば、それは「私たちが自明/常識とするものからほんの僅かだけズレた論理によって紡がれる語の連なり」ということになる。すなわち、すべての優れた文学作品が持つ美点と同じように、カフカの不条理もまた純粋に言語的領域のものなのだ。それゆえ、凡百の映画とその監督たちは優れた文学作品を前にすると(あるいはそれ以外の場合でも)、言語に対して阿るか嫉妬するか無視するかしかできなくなる。要するに、言語に対する敗北である。

だが、ここでオーソン・ウェルズは「語の連なり」という言語的領域のものであるところのカフカの不条理を、映画的領域のものであるところの「空間」「光と影」「俳優の演技」によって見事に映画化してみせた(たとえば、ファースト・シークェンスから不条理の匂いを撒き散らしている「ヨーゼフ・Kの部屋の天井の異常な低さ」は、カフカのテクストには一言も言及されていなかったはずだ)。この映画の中には、空間にしても光にしても私たちが見慣れたもの(=私たちが自明/常識とするもの)は何ひとつないのだ。したがって、紛れもないウェルズの刻印に満ちたこの映画が、小説のプロットをなぞっただけでは決して獲得できないカフカの喜劇性やエロティシズムさえも身にまとっているのは当然のことだとも云える。

ここで、無茶を承知で私は敢えてこう云ってみたい。『審判』の空間は『市民ケーン』の四倍独創的である。『審判』の光と影は『上海から来た女』の三倍魅惑的である。アンソニー・パーキンス演じるKはノーマン・ベイツの一・五倍スリリングで、ウェルズ演じるハスラー弁護士はハリー・ライムの八倍インパクトがある。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ゑぎ[*] 袋のうさぎ

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