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[コメント] 転々(2007/日)

いい意味でスケールの小さいロードムービー。殆どのショットが奥行きのある構図を採っているにも関らず、その風景が、登場人物達が他愛のない会話をしながら歩いている路の延長線上にある事で、妙に平坦な印象になっているのが面白い。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭の、羽交い締めにして靴下を口に入れるという、命に危険は無いにしても真剣に嫌な行為や、「ホモのオッサンに体を売れば金なんか手に入る」という、これまた真剣に嫌な最後通告など、割と本格的に危機感が漂う所から始まっているのが、スパイスとして利いている。

落ちてきた柿に直撃された文哉(オダギリジョー)の「あつう!」という、事態の唐突さに言語中枢がバグったような叫びや、神社の幟の「呪い祭り」「放蕩祭り」という文字の、ありそうにないが、あり得ないとも言い切れない感じなど、言語センスが絶妙。取立人の福原(三浦友和)の、乱暴でぶっきら棒だか妙に飄々とした存在感も味がある。

また、この二人が遭遇しては淡々と別れゆく人々も、色々と醸し出している。中でも岸部一徳は、時折聞こえる猫の描き声と同様、「何も起こっていないのに、何かが可笑しい」と感じさせる、機能的な記号となり得ている。「街で岸部一徳を見ると、いい事があるらしい」というジンクス(?)にも、どこか納得させられる。彼は、台詞どころか表情すらない、憂いに沈んだ地味な妖精の如き存在となっている。

突然現れ、軟体生物的な身振りで家に上がり込み、歌うようにウガイを始めるふふみ(吉高由里子)の、ゆらゆらと歌い踊るハイテンションさは、文哉や福原らが繰り広げる家族ゲームの気恥しさを、彼女のカラッと過剰に明るいキャラが吹っ飛ばしてくれ、心地好い。オダギリが「親父、親父ぃ」とふざけて何度も大声で呼ぶのを、ガラっと襖を開けた吉高が、あの脱力的な甘い声で一喝する場面は、疑似家族的雰囲気へのツッコミというよりも、遠慮なく文句を言い合う家族関係の完成という観がある。

彼女の他にも、オープニングの歩きの場面等で横から介入してくる女子高生達や、テレビに映る、街中で若い娘が跳び箱をする番組等、若い娘達は、この映画の淡々とした雰囲気そのものをキャッキャと茶化すようにして唐突に登場し、物語の本質的な所には関り合わないまま煙のように消える。

更に巧いのは、おばさんの使い方。彼女らは、単なる小ネタではなく、男同士の淡々とした遣り取りしかしない福原と文哉に代わって、間接的にドラマを際立たせているのだ。植物園で、福原の手にある札束を見つめるおばさんの表情は、事態の奇怪さへの驚きを代行する。学校の前でピアノに聴き惚れる福原に自転車のベルを鳴らしまくるおばさんが彼に撃退される事で、福原の、文哉に対してだけではないゴーイング・マイウェイな性格が顕わになる。中華料理店のおばさん(鷲尾真知子)が、いい年をして我が侭な息子に金を持ち出される場面での福原の淡々とした態度は、彼の、世と隔絶した在りようを印象づける。

そして最後、警察に福原が出頭しようという時に登場する老婦人。彼女は、後ろ向きに歩くと若返る、という冗談を聞かされて「私は若返りたくなんかないんですよ」と穏やかに言いながらも、暫らくすると二人の方を向いて後ろ向きに歩く。福原と文哉は多分ここで、今さら後戻りできるとは思っていないのだろうが、今まで二人で歩いて来た時間を惜しんで振り返りたい気持もある筈。後ろ歩きをする老婦人の横を、若い男がジョギングしながら通り過ぎる。この、同じ方を向きながらも逆方向へ行くという隔絶感こそ、文哉と福原の間に漂う哀愁なのだが、当の二人はそうした感情を素直に表したりはしないのだ。

息子を幼い頃に亡くしていたらしい福原と、父に捨てられたオダギリとの擬似親子関係は、ベッドで眠り続ける(といっても‘永眠’しているのだが)福原の妻の見ている夢のようにも見え、思いがけず小栗康平の『眠る男』を想起させられる。福原が妻と、日曜日の最終バスの「絶妙な寂しさ」を共有しようとした時、彼が居眠りしている間に降りていた妻の姿がガラス越しに見えるシーンでは、オレンジ色のライトに照らされた彼女が、幽霊か幻影のように感じられる。妻が、夫と寂しさを共有する事を拒絶したという事実。この時点で既に、福原にとって妻は死んだも同然だったと言えるだろう。

劇中で、福原の散歩に対して「目的地があるのなら、散歩と呼べないのでは」という疑問が出てくるが、その点、対照的なのが、彼の妻の同僚達の、「見舞い」という目的を無視して映画のロケに参加したりする、行き当たりばったりで他愛ない事に戯れる姿。福原は、妻を殺して自首する、という非日常性を背負う散歩をする事で、文哉と共に、日常に潜む小さな発見や幸福を得ていったのだ。『亀は意外と速く泳ぐ』もそうだったが、この三木聡監督は、日常性の擁護、という点に、その特異な才能を示す人。

このようにシリアスな主題を含んでいる映画だが、基本的には笑いで場面を繋いでいく作品。突如現れたエレキ親父が、警官の前でもギターを平気で掻き鳴らすのを何故か期待してしまう文哉(と観客)の予想をわざと外してみせたり、自分がセックスしかけた熟女が福原の妻でなかった事に安堵した文哉が謎のホーメイを奏でるといった、何げない人情の機微を絶妙に突いてくる匙加減がこの作品の上手い所。

ただ、笑いのツボというのは人それぞれだが、僕の感覚から言わせてもらうと、この監督の匙加減は、ひと匙余計に加え過ぎな所がやや目立つ。例えば、平岩紙が綾波レイのコスプレをした姿はそれ自体がバグというかギャグであるのに、彼女がタバコを手にしている事で更なる違和感を付け加え、これは可笑しな場面なんですよ、という説明的なギャグになっており、却って観客の自然発生的な笑いを抑えてしまっているのではないか。

ギャグがひと匙入れ過ぎなように、ウェットな人情もひと匙余計な感じがした。それを照れて出さない感じが、却って恥かしいというか。難しいもんだな。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)水那岐[*] おーい粗茶[*] 死ぬまでシネマ[*]

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